没後10年、山崎豊子こそ日本文学史上、最もスケールの大きな作家ではないのか、恐るべき使命感
日本の小説家を明治以来、現代まで回顧して真の意味でス
ケールが大きく、通常はテーマとして取り上げられないよう
な社会の巨大なタブーに挑む作品、さらには現実の大河的な
歴史小説を書いた小説家も山崎豊子をおいてほかにはない。
その山崎豊子は2013年9月29日に死去された。没後10年にな
る。だがその作品群を見れば、・・・・日本の小説家では
およそ例を見ないほど社会的な意味合いでスケールが大きい
といって何の過言でもない。日本のバルザックという評価
もあるが私はあえて日本のドストエフスキーと云いたい。
これだけの作家、歴史小説、社会的小説を書いた小説家は他
にもいるが、スケールとタブーへの挑戦では比肩される小説
家は他にいない。
古来、日本の小説家というと私小説、身辺に題材をとった
心境小説、また情痴に溺れ、花鳥風月の趣味的世界に耽溺する
、男性小説家でも全くスケールの小さな、矮小な世界に閉塞す
るケースが非常に多い、広大な社会的、歴史的スケールに、さ
らに誰も通常はふれたくないタブーに挑む、という作家は山崎
豊子に匹敵の作家はいない。盗作、盗用騒ぎもスケールの大き
さ、また使命感の強さの裏返しだろう。
何よりも、膨大な資料を集めなければならず、そのためのス
タッフも抱え、資料をそのまま使い傾向があったため、盗作問
題で騒がれることが多かったが、いうならばスケールの大きさ、
タブーに挑戦の結果である。
今、2010年共同通信記者の取材を受けた山崎豊子の記録が
残っている。非常に貴重な内容なのであえて引用させていただ
く。私の考えもかなり入っている。
2010年、冬に山崎豊子さんを堺市の自宅に訪ねた。1924年生
まれの山崎豊子さんはこのとき86歳であった。その数年前から
原因不明の全身に生じる痛みに苦しみ、その日も「最悪の状態」
であった。質問には声を振り絞って答えていただいたが、声は
小さくかすれていた。聞きもらすまいと、車椅子の肘掛けに縋り
ついて口元に耳を寄せた。
「枕木の一本一本が日本人の遺体に見えました」と涙ぐんだ
のは、『不毛地帯』の取材に話が及んだときである。日本人捕
虜がその敷設に関わったシベリア鉄道を目にした山崎さんには
、彼らの過酷な日々が蘇ったのであろう、シベリア取材を敢行
し、強制収容所の跡を探してさまよったという。作品は抑留者
の悲劇を出発点に、戦後日本人の精神的飢餓を抉った。
最も苦労した作品は?との問いには即座に「『大地の子』で
す」と答えた。中国に残された日本人孤児の壮絶な生き様を追っ
た一大叙事詩、この小説のために山崎さんはさんは約3年間、
中国で実際に暮らしたのである。建設現場にも泊りこみ、牢獄
も取材した。
「もううまく書こうなんて思いもよらなかった。石の筆で岩
に刻みつけるような思い書いたんです」
『運命の人』では沖縄返還密約に絡んだ事件、毎日新聞の西山
太吉記者にアプローチされた外務省女性職員、沖縄の犠牲の上に
成り立つ日本の繁栄の欺瞞を突いた政治記者の意欲には心をよせつ
つも、大新聞記者のモラルの問題も提示した。
「私達は沖縄に迷惑をかけたのではない、犠牲を強いたのです」
と山崎さんは云い切った。
1,924年、大正13年、大阪市生まれ、戦中は軍需工場で働いた。
「本を読む時間も勉強の時間もなかった。神様に『奪われた青
春、時間を返してください』と言いたい」
他方で「生き残った」という罪の意識もあった。
「私と同世代の男性は戦場に行って多くが亡くなり、女性も徴用
の向上で爆撃で亡くなった人も多い」
1959年、皇太子ご成婚の夫妻の乗る馬車が皇居前の玉砂利を踏ん
で音を立てた。その音は、学徒動員で戦地に行った学徒兵の骨の音
のように聞こえたという。
「戦争で死んだ人のことを思えば、命ある限り、書き続けねばな
らない。生き残った者としての使命感こそが私を突き動かしていま
した」
2010年8月から週刊新潮で始めた連載『約束の海』も真珠湾攻撃
に参戦した父と海上自衛官の息子が主人公である。戦争の本質に迫
ろうというのである。
作家にとって最も大切なものは「勇気」だという。
「『白い巨塔』では大学医学部、『華麗なる一族』は銀行も持つ、
旧財閥系の一族、それらは誰もふれられない、ふうれたがらない、
いわば聖域でした。私がそれらを書くのに蛮勇を振るいました」
さらにこれも決して誰もふれようとしなかった労音と日本共産党
を描いた『仮装集団』を挙げねばなるまい。
ほとんどの作品は「血を吐くような思いで」取材し、「のたうち
回って書いた」という。新潮社の名編集長だった斎藤十一さんにこ
う云われたという。
「山崎さん、あなたはペンと紙を持って棺に入るべき人です」
まさしく、その通りの作家人生だったと思う。偉大な小説家とい
うしかあるまい。真の意味でのスケールの大きいこと、歴史、社会
的な意味での深層を突いた点で日本文学において山崎豊子の前に山
崎豊子はなく、また後にもないであろう。
2010年の冬、堺市の自宅で 山崎豊子
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