ギュンター・グラス『犬の年』、「ブリキの太鼓」の作者の意欲的な長編だが逸脱のイメージ噴出が多く読むのは至難
映画「ブリキの太鼓」のシーンは多くの人の脳裏に焼き付い
ていると思うが、そのテーマというべきか、グラスはナチスの
台頭、ドイツ人の熱狂と崩壊、さらに戦後の西独のあまりの経
済的復興と発展、その歴史を民族的視点もベースに書き上げよ
うとした意欲的なさらに野心的とも言える長編である。翻訳は
集英社から上下二巻で1970年に刊行されている。
実際、すでに『ブリキの太鼓』『猫と鼠』で示されていたグ
ラスの何とも特異というべきか、奇怪な才能がさらなる長編へ
のチャレンジに向かったわけである。
しかし、あの湧き上がるというべき果てしないイメージは、
全体をも把握できる読者ならこの『犬の年』もさらなる魅力に
満ちた作品となるだろうが、止めもなく逸脱し、際限もないよ
うな狂気じみたイメージの噴出は、正統的文学作品に慣れ親し
んだ文学愛好者には読むことは大いなる苦しみになるだろう。
この作品は三部に分かれている。第一部は、その語り手は既
に廃坑となったカリウム鉱山の所有者、とは分かるのだが、で
なざぜ、カリウム鉱山所有者がこの作品で語り手、の意味が分
からない。その役割も、でそれは第三部の終わり近くにならな
いと意味がわからない。だが、そのカリウム男はこの長編を支
える二人の人物と象徴的に二匹の黒犬と捉えられる数代に渡る
犬たちで成り立つ中心グループの一人なのだ。
でストーリーはダンチヒ自由国家の旗が翻るという牧歌的な
時代、マテルンという、歯ぎしり癖のある少年と、ユダヤ系の
血が流れるアムゼルという少年との友情の生活が第一部だ。語
り手の回想のイメージを幾重にも重ねてゆく、お好み焼きじみ
た書き方、複雑な色彩と堅固なる形をそなえたタブローは上等
な表現であるが、読者はしだいにその周囲を飛び回る黒犬に親
しんでいく。
アムゼル少年は、ここもまたグラスらしく、天才的な「案山子
の制作者」だという。かれをユダヤ人として迫害するような風潮
が徐々に牧歌的平和の雰囲気を毀損してゆく。マテルン少年はそ
の庇護者となる。
第二部でマテルン少年とアムゼルとでかわされる友愛に満ちた
手紙で物語は語られてゆく。共産党員になったかとおもえば、ナ
チ党員になったり、また軍隊で反抗を繰り返す青年となったマテ
ルンの人物像もあらわになる。アムゼルは奇妙な案山子制作者と
して成長するさまを詳細に描いているようだ。
ある夜、歯ぎしりするナチ党員を含んだ暴漢の一味がアムゼル
を襲撃する。そこにマテルンさえいる。その後、姿を消したアム
ゼルは迫害されるユダヤ人でありながら文句なしの安泰の生活者
でありながら、噂の中で生き続けるようだ。迫害の方に身をおい
たマテルンは逆に苦難を辛くも生き延びる。
第三部になってマテルンは、かってヒトラーの愛犬だった黒犬
とともに、戦時下で彼に不幸を強いた上官や僚友に報復を繰り返
す。彼もナチ党員としての悪行をあばかれていく。あげくにマテ
るんはと黒犬はその悪行の糾弾者であり、ドイツの激動を見事に
生き抜いたアムゼルに再会するが、ここでキチガイじみたイメー
ジが噴出する、アムゼルの案山子地下工場に導かれる。ここに
グラスの意図は明白となるが、どうにも基本は「ブリキの太鼓」
のコンセプト、の繰り返しのように感じられてならない。「もう
その手は食わないぞ、ギュンター・グラスよ」と言いたくなる。
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