遠藤周作『聖書のなかの女性たち』1961,「おバカさん」と表裏一体をなす佳作だろう


 女性週刊誌に連載されたこの『聖書の中なかの女性たち』
であるが、その一、二年ほど前か、新聞連載され、大好評を
とった『おバカさん』と、基本的に同時期と云って差し支え
なく、どうもこれは、あのひょうきんな『おバカさん』との
表裏一体をなす佳作、というより労作だと思う。

 『聖書のなかの女性たち』だから旧約と新約があるが、基
本はイエス・キリストがその生涯でめぐりあった女性という
ことだが、同時に、その女性の特性を統合して代表する存在
として「イブ」を登場させている。旧約の中にも数え切れな
い女性はいる、ただし当然ながらキリストは登場しない。
イブでなぜ女性を代表させようとしたのかというと「女性の
暗い部分、女だけの持つ悪の原型」だというのだ。その対極
が「女性の精神的な清らかさ、純血とともに、母性の象徴」
でもある聖母マリア、その両極の間にキリストと関わった女
性たちがいる、というのである。

 その両極の女性たちとは十字架を背負ってゴルゴダの丘に
登る救世主の顔の泥と血を拭ったヴェロニカ、キリストの
足を涙で濡らしたというナインの娼婦、マグダラのマリア、
賢明なるマルタ、キリストの衣にふれて癒やされたという女
性、ポンショ・ピラトの妻、サロメとヘロディア、・・・・
正直、キリスト教徒でなく予備知識がない女性には、まこと
に鼻につくかもしれなが、これこそがキリスト教なのだ。

 聖書、新約聖書は大マジな書物だ。遠藤周作さんはカトリ
ック信者である。この時点ではまだ狐狸庵先生を名乗ってい
いが、お茶目でイタズラ魔の遠藤さんだけに、聖書の古めか
しい堅苦しい世界に閉じ込められている女性たちを、作家の
想像力で半ば、原題の蘇られせているのである。なぜ娼婦や
病んだ女性がキリストの心とふれあったのか?情欲に溺れる
マグダラのマリアが復活した救世主の声を聞く、という信仰
はなぜ?ユダヤ総督ピラトの妻が突如、夫の命令で処刑され
るイエズス、その処刑を予見し、それにイカに怯えていたか、
遠藤さんの話術ならばこそ、親しみを込めて語られる。

 だが遠藤さんのイスラエル訪問、聖地エルサレムを描いた章
だが、まったく観光化、俗化しているゴルゴダの丘に遠藤さん
は憤激、ふと地図を開いて、そばにユダが首をつった「血の畠」
明るい日差しの下、どこからかジャズが聞こえてきた、はそれ
時代が作品化できそうだ。

 女性週刊誌、若い女性向けだから至って甘い内容だが、さす
我の遠藤周作さんだ、その比較文明論、宗教美術論はなかなか
見事だと思える。かなリのハイレベルな内容も含んでいる。そ
のちょっとまえの新聞連載、成功作「おバカさん」とどこかで
通じ合っているな、と思わせる、いわば表裏一体の作品ではな
かろうか。ひょうきんと真面目の表裏一体こそが遠藤周作さん
だ。

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