さすがに命は憂きにも絶えず、で妙にあきらめの心境に


 更級日記、末尾に近い部分だったと思うが、「さすがに
命は憂きにも絶えず、長ろうめれど」とあるが私の今の心
境はそれそのものである。私は泣いたことはないに等しい
が、それも幼年期からあまりに理不尽な苦難、苦しみが多
すぎたから、泣いてなどいられなかった、わけである。
だが正直、人生は自分探しの旅とは云ってはみたが、この
年齡、正直、さしたる年齡とは思えないが、私の場合、実
に重篤な持病があり、生きるとはその苦しみと付き合うこ
と、だから、たから古希が近づいても、何か、全てがあき
らめの心境になっている、というのが偽らざる気持ちなの
である。

 業界、ジャンルはさまざまでも、みっちり正規雇用で働
き通した人のような年金があろうはずはない。無論、人に
使われる必要はないと思う、いつまでも使われていてはダメ、
自ら独立起業して、という才能、甲斐性があればいいが、そ
れもからっきし、そもそも何か生きてそれなりの創造、独創
の業績が残せるなら生きる価値あり、だがそれも遥かに及ば
ない。いつの日、と思いながら、で無為に時間は過ぎるのみ。
それも健康ならいいが、この持病の身では生きるとは苦しみ、
というわけで古希など人生の再スタートと位置づけて一向に
構わないレヴェルの年齡と思いながら、現実は、である。
幼年期から小学校、中学、高校、と学校生活はあまりに苦渋
な思い出が多く、あれやこれやで大学生活も青春とは無縁、
それを取り返す、リベンジ、というには健康に難がある、と
いいうことで、さすがに、全てがあきらめだろうか、という
心境になってしまう。あきらめなら、あきらめでいいが、し
かし過去の負債が、苦渋な記憶が多すぎて、それをいかなる
意味でも実質的に消すことも出来ない。それを真にリベンジ
というなら何千年という長い年月が必要と言わざるを得ない。
叶わぬ夢というものだ、生きている以上、救われる人間など
実は一人もいない、という酷薄な真実である。あえて云うなら
、私だけが特異、特殊なようで、そうでもない。私は酷薄なる
真実をあまりに露骨に体現しているに過ぎない、とみるべきだ
ろう。


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