君は『三太郎日記』阿部次郎を読んだか! 戦前の青春時代の必読書

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 戦前は青春の必読書、『善の研究』、『愛と認識の出発』と
並んでの押しも押されぬメジャーな存在だった、ということだ。
でも今は若い人で『三太郎日記』を読むなど、稀有を通り越し
ているのではないか。かくいう私もごく最近まで読んだことは
なかったかKindle Unlimited で読めるので一気に読んだ。も
ちろん、Kindleでなくとも青空文庫で読める。青空文庫のほう
が読みやすいとは思うが、実際、今の若い人は非常に読みにく
いと感じるだろう。なお、画像は土門拳撮影。

 『三太郎日記』は第一、第二、第三の3部構成である。第一
部は明治44年、1911年、阿部次郎29歳の夏から大正3年、1914
年、32歳の正月に至る三年間に書かれ、第二は続いて大正3年
3月からその年の11月まで、の間に執筆されている。打算は大正
4年から3年間にわたって書かれたもの。最後は大正6年、1917
年7月、阿部次郎が35歳の時である。よく読まれるのは第一部で
ある。阿部次郎最初の著作である。

 青田三太郎という名前に託されて書かれた日記であり、阿部
次郎自身は「内面生活の最も直接的な記録である」と述べてい
る。実際、まさにその通りと言うか、ふさわしい表現だとは思
う。はじめは三太郎の面影を伝える「断片」があり、つづいて
二十篇の日記が収められている。日記と云って普通の日記では
なく、日記風の発想で書かれている、という風情である。平面
的に日記が並べられている、のではなく、若き日の阿部二郎の
精神的彷徨とその展開というのか、発展を現している。自己の
精神が徐々に確立されるという真摯を極める内容である。

 自序の冒頭部分

 此類の書は序文なしに出版せらる可き性質のものではない。自分は自分の過去のために、小さい墓を建ててやるやうな心持で此書を編輯した。自分は自分の心から愛し且つ心から憎んでゐる過去のために墓誌を書いてやりたい心持で一杯になつてゐる。
 此書に集めた數十篇の文章は明治四十一年から大正三年正月に至るまで、凡そ六年間に亙る自分の内面生活の最も直接な記録である。之を内容的に云へば、舊著「影と聲」の後を承けた彷徨の時代から――人生と自己とに對して素樸な信頼を失つた疑惑の時代から、少しく此信頼を恢復し得るやうになつた今日に至るまでの、小さい開展の記録である。自分は自分の悲哀から、憂愁から、希望から、失望から、自信から、羞恥から、憤激から、愛から、寂寥から、苦痛から促されて此等の文章を書いた。全體を通じて殆んど斷翰零墨のみであるが、如何なる斷翰零墨もその時々の内生の思出を伴つてゐないものはない。固より外面的に見れば、此等の文章の殆ど凡ては最も平俗な意味に於ける何等かの社會的動機に動かされて書いたものである。

 
 阿部次郎自身は「この書に取り柄があるならば、それは物の
考え方、感じ方、並びにその感じ方、考え方の発展の経路にあ
るのでり、その結論にあるののではない」

 青春時代の思索はそのようなものだ、ということだろう。三
太郎は三年の間、雲のごとく、変幻浮動する心の姿を眺めて暮
らすのだが、「三年の偽りにも三太郎の心は寂しく空しかった」
と「断片」に書いている。

 また「俺の心には常に創造の要求がある」と三太郎は書くの
だが、とにかく若き日の阿部次郎の若き日の創造の欲求、情熱
が読み取れる。といって社会は、必ずしも若い個性の創造への
欲求をそのままには満たしてくれない。ともかく青春は悩みばか
りである。別に青春に限ったことではないが、青春の悩みはまた
浅はかさも手伝って激しいものだ。とにかく、御多分にもれず、
三太郎は悩みに悩む、いうならば三太郎は純粋な人間なのだ。
内面は常に絶体絶命の危機に瀕する。それこそが青春なのだ、そ
れは現代の若者も同じはずだ。

 「生存の疑惑」から

 俺の心には常に創造の要求がある。魂の底に潛む一種の不安は常に靜かなる外物の享樂を妨げてゐる。本を讀み乍ら、人と話し乍ら、外を歩き乍ら、酒を飮み乍ら、俺の心は常に最深の問題を胡麻化してゐる樣な不安を感ずる。道草を喰つてゐるのだと云ふ意識は常に當面の經驗に沒頭することを妨げてゐる。從つて俺には本當に我を忘れた朗かな吸收の時期がない。併し創造の脈搏緩かな時、俺は外物と應接することによつて紛れることが出來る。大なる苦痛なしに職業の人となることが出來る。
 然るに運命は今俺の内面生活を危機に導いた。死と愛との姿は今眼について離れない。内界の平衡は著しく傾いて、此儘にしてはゐられないと云ふ意識は強く俺の魂をゆすぶる。俺の心は今此意識に面して顛倒してゐる。俺は苦しい。俺は此問題に對して正面からぶつつかつて行きたい。俺は今創造の熱に燃えてゐる。今一息押して行けば忽然として新しい世界が現前しさうだ。固より俺の創造は例によつて否定に向つてゐる。併し凡ての決然たる否定は常に積極的の創造である以上、何處に否定を恐れる理由があらう。俺には此儘にしてはゐられないと云ふ心がある。此心を押しつめた處に、何等かの形で新しい世界が開けて來ない譯はないと思ふ。


 前述したように、『三太郎日記』は戦前は西田幾太郎『善の研究』
、倉田百三『愛と認識の出発』と並ぶ、青春必読の三羽烏であった、
といって過言ではないということだ。だがそれは戦前に話であり、今
となって若い人が『三太郎日記』に我が悩みを託す、など聞いたこと
もない、・・・・・でもやっぱり読む人は読んでいる、のだろうか。
私もタイトルだけは長く聞いていたのみで、多少でも読んだのは古希
!というのだから人生なんて短いものだ。戦前も戦後も青春の本質が
変わるはずはない、戦前は軍隊、特高の圧力、があったが現在といって
思想、信条の自由など建前だけ、巨大な力でマインドコントロールさ
れるだけで事態はむしろ悪化の一途ではないのか。誰しも三太郎日記
的な精神の悩み、をくぐる以外にないのだが、

 いかんせん、『三太郎日記』は現代の若者には文章が難しい!だから
「現代語訳」まででているくらいだが、それほど難解なものではない、
と思う

 「この三太郎の日記においては、とくに内生の記録としてのみ評価
せられむことを、親切なる読者に希望して置きたい」

 この文章からして現代の若者にはととっつきにくいと思うが、古文
ではないのである。読むには努力と忍耐が必要である。

 阿部次郎とは?三木清としばしば混同されるかもしれない。三木清
の『人生論ノート』も戦前、青春必読書だったと思う。でも難解さで
は『人生論ノート』が遥かに上である。

 1883~1959,戦後もある程度、長く生きられた。山形県出身、荘内
中学、山形中学などから一高、東京帝大文学部、ヨーロッパ研修後、
東北大教授、とその硬さは想像に難くない。人格主義を根本に据えた。
人格の成長と完成を最も高い人生の価値とする個人主義的理想主義で
ある。戦後は仙台に日本文化研究所設立、指導に当たる。

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