紅白司会、唯一の失敗例となった林美智子さんの1965年の紅組司会、見ていて本当に気の毒だった
紅白司会、今まで担当した人は多い、またある時期からは
総合司会という新たな司会役も登場した。古来は、それぞれ
紅組司会、白組司会であった。全て見たわけではない、最近
は全然見ないが、専門的アナウンサー、俳優、歌手、タレント
、など多くの司会役がいたが、皆、実に堂がいって上手かった
、ただし唯一の例外を除けば、でそれがあのNHK、朝ドラ「
うず潮」のヒットで大いに名前を売った新劇俳優の林美智子
さんである。俳優はそれまでも司会担当はいた、思い出すの
は森光子さんか、やはり文句なしに上手かった。ただ不慣れ
拙い、同時に上がってしまって、というケースは、である。
新劇を出て間もないにしても、向いたタイプではない、とは
子供心にも思われたが。
ただかなり純粋な意味で新劇俳優は、思いつかない。林さん
以外は、八幡浜高校を出てOSK付属養成所、大阪の劇団新春座
に1959年入り、退団後上京、そこで1964年、東京五輪の年に
NHK朝ドラ「うず潮」モデルは林芙美子、ドラマでは「林フミ
子」、林芙美子には「うず潮」という作品はあるが「放浪記」
をドラマ化したと思う。NHK大阪放送局の製作、1964年4月か
ら一年間放送、視聴率は平均で50%近い、大変な人気を博した。
でまた放送中は人気の朝ドラ『うず潮』主役の林美智子、19
66年の正月雑誌「大晦日のNHK紅白歌合戦の『敗軍の将』の林
美智子さんだが、代々木競技場裏のマンション4階の彼女の部
屋には昨年の三倍以上の年賀状が投げ込まれた、祝電も入った」
でなぜ林さん?新劇女優で歌の世界にふれてもいない、大丈夫
か?と多くの人は思ったと思う。その1965年末、第16回紅白の司
会者の選考は難航したという。江利チエミ、楠トシエ、越路吹雪、
などが早くから有力とされたそうだが、辞退されたり、横ヤリも
入るなど、容易に決まらず12月初旬、突如、林美智子にお鉢が回
った。新劇の狭い世界にずっといた林さん、仰天し、十日間は考
えたという。結果的に周囲から「やってみたら」と言われ、引き
受けたが不安な日々だった。中村メイコさんが「美智子さんの可
憐さ、その生地をだしたらいいのよ」と励ましてくれ、江利チエ
ミさんは「まず寝ること、前の晩にビールを飲んで10時間は寝て
英気を養いなさい」
林さんはビールを飲んでも眠れなかったという。当日は午後3時
に東京宝塚劇場に入ったが、考えると不安になって足がガクガク
震えた。だが舞台に出た瞬間、シャキッとしたという。
白組司会は宮田輝アナウンサー、もう何処から突いても落ち着い
たものだ。それにも圧倒され、いきなり口がこわばってしまい、多
少、どもったりした。「えーい」と林さんは自分のほっぺを叩いて
こう思った「捨ててはダメよ」私も林さんが自分でほっぺを叩いた
シーンは記憶にある。
出場歌手は当時はさまざま、新人、ベテラン、中堅、まだ放送時
間は三時間だった。
「少しは用意した言葉もあったけど、とちるし、アドリブもぎこ
ちなくて」
と激動の三時間だった。だが不慣れな林さんの懸命さに会場からは
客席から温かい拍手がわいた。
私も見たが、とにかく板につかない、あ、「やっぱりミスキャスト
だった」と感じたが、林さんも投げる訳にはいかない、最後まで、懸
命に、本当にぎこちなかったが司会を行い、やり終えた。終わって会
場からすぐに宮田輝アナウンサーの自宅に行き、ビール一本、ブラン
デー3本、おでん、おつまみ、オードブルなどを平らげ、朝の5時に
やっと帰宅したそうだ。
正月、二日、三日は疲れて寝て過ごした。置きては林芙美子の『清
貧の書』をよんだりした。
「ほんとのところ、良かったのやら悪かったのやら、だれも云って
くれなくて、落ち着かなかった。暮から上京し、御節を作ってくれた
母も何にも云わないし、笑うだけ」
「結局、紅白に出たほうが良かった、ことにしよう。とにかく人生
の大きな転機になったんだから、それを大切にしよう」
と思ったそうだ。『清貧の書』を読み、自分を思い出した。八幡浜
で育った、七人姉妹、その子供時代、OSKでの寮生活、新春座の研究
生としていい役がつくのを当てもなく待った時代、大阪の場末のアパ
ートでの寂しかった正月」
出場した歌手などは「司会者のルールをわきまえていない」と批判
する人もいたが、水の江瀧子さんは「気にしない、気にしない、私は
90点をつけます。あの初な感じが良いのよ」
正直、私は林さんはおおきき深く心が傷ついたとは思う。だがそう
なった以上は仕方がない、マイナスのようで実はプラスと評価したい。
タイムラグはあるが。
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