今年の誕生日が感無量な理由、
当たり前だが、10月も末になると釣瓶落としである。本当
に日があっという間に短くなった。そうなると11月が近い、11
月は月人しては人気はないが、祝日が2回ある。肝心の12月は日
本は世界的珍しいが、祝日がないのである。世界の大半の国は、
12月にクリスマスを祝辞としている。アジアのマレーシア、イン
ドネシアというイスラム国でも、である。やはり日本はどこか、
基本、中国やタイ、北朝鮮など共通点がある国である。・・・・
とこれが愚痴めいている。
今度の誕生日は実は私には特別な意味を持つ、それは60歳代と
別れを告げ、古希を迎えることだ。もうそんな年齢かと思うが、
正直、感無量である。生き抜いたということそれ自体、に対して
である。15歳で超重病になった私は、それ以後は一日一生の気持
ちで生きてきた。病気だけでも大きな災難だがそれ以外にも災難
は次々に襲来してきた。両親は異常な男女だった。まことに言い
にくい、「母」とは言い難いが、母親は私自身、記憶がないほど
幼い時から、私が一人で遠くから通って母の面倒をみているとき、
その最後の時期まで「殺意」を持っていた、ということが最後の
最後に確認できた。無論、「殺す」発言は数しれず、兄には一度
も云わないし、暴力を振るったことはない。私には幼い頃から、
日常的に暴力、閉じ込め、でもその本能以上に母親にしみついた
悪い心は最後まで変わっていなかった、と確認できた。冗談で「
殺す」などと言えるものじゃない、全て本気だったことは間違い
ない。・・・・・・そんあ異常な両親をもって病気やそれ以外の
おびただしい災難に襲われながら、なんとか生きてこれた。無論、
その間は傷だらけの満身創痍、屈辱のデパートである。その親、
「卵賤民」というほかなかった父親、次男の私に殺意を一貫して
持ち続けた「母」だから、運命は今にして思えばひどいものであ
る。だが生きたこと、重篤な病気を持って、である。それで古希、
年齢と思えば当たり前だが、私には感無量である。
いかに親に運命を捻じ曲げられようが、生きた。まだまだ、頑張
るしかない、生きることは誰しも容易なことではない。社会で企業
にはいって、大半はそうだと思うが、・・・・会社で生き抜くなど
、親に虐待されるとかというレベルではない、また厳しさである。
企業に在籍し続けるのは実は容易ではない。ホントの話、大変なよ
うで私の人生など、ある意味、楽なものだった、とまた言い得るの
である。私ほど楽をして生きた人間もいない、かもしれない。苦渋
は天文学的にあったが、熾烈なものでもなかった。苦渋はあれども
消耗せず、が私だった。
ともあれ12月のバースデーまではまず慎重に、明日生きられる保
証など人間にはないのである。一日がまず人生だ、それが積み重な
るのみ。まだまだ頑張らねばならない。
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