畑山博『つかのまの二十歳』1982,人生、このままで終わらないという不撓不屈の精神

文部省課題図書にも選ばれたと云う、それは別に考えなくて
いい。容易な平坦な一本道の道などないということだろう、人
生の労苦は甚だしい、理不尽の極み、だが生き抜く、である。
人生は何度でもやり直しが効くということでもなく、真の意
図は現状に甘んじることなく、初志を貫徹、必ず立ち上がる、
夢をあきらめない魂だろう。
主人公はまずは17歳の少年、ここからスタートだ。畑山さ
んの自伝的な内容だろう。高校途中から新聞配達を始める。
そうでもしないと、母や妹たち、一家4人が生きていけない
のだ。畑山さんは1935,昭和10年生まれだ、17歳では1952年、
戦後の貧しい時代である。ところが彼、主人公は大学進学率
に非常に高い高校で「私、一人だけが異物だった」という。
学校でのあまりの苦渋、除け者だった主人公は、たとえ新聞
配りだろうが、「一家を支える大事な仕事と思って、正確に時
間を守って走った。時計代わりになるほど信用されよう」とし
た。お蔭で仕事としては得意先も増えて上々だったが、ある朝、
同年齢のような若者の勉強の姿を見て心が萎えてしまう。
彼はとにかく、学問をやりたかった。たんなる知識をではな
く、「人間が未知なるものに向かって進んでいく」というコン
セプトの学問だ。と云ってあの時代は進学を推進補助の制度も
乏しい、しかたなく、1954年頃になるのかどうか、彼は防衛大
の前身、保安大学校を受けるが妙な疎外感に襲われ、受験場か
ら出ていった。
かくして行き場もなく町の鉄工所で働く、19歳で旋盤工とな
る。夜学に通える約束だったが、果たせない。残業で毎日13時
間労働となる。休みは月に二日のみ、彼はそこで13年間も働い
た。
これがあの畑山博さんの若かりし時代だ、正直貧しかった日
本だが東京の貧困層は地方より、惨めさが際立ったと言わざる
を得ない。畑山さんは1966年、放送作家でデビュー、同年に「
一坪の大陸」で群像新人文学賞、小説部門受賞、デビューまで
旋盤工だったわけである。その殺伐たる労働の長い生活の期間
、まさしく「なにを明日につなげるために、私は生きてきたの
だろう」と自問する。
旋盤工が何も卑しい職業という意味ではない、その地道ない
うならば手応え、熟練の手応えの蓄積、「ただ心の襞をすり減
らすだけの毎日が続く」厳しい日々だった、東京の町工場での
労働の日々、貧乏な生活の描写、カレーライスを注文したら
カレーとライスが別の皿で出されて食べ方が割らず狼狽した、
など、下層の労働者の哀しみとペーソスが滲み出ている。
このままの生活は何の希望もない、だがそれで終わらないと
いう気概、ガッツがあったわけだ。2001年9月に66歳で亡くなら
れている。このままで終わらないという不撓不屈の精神だろう。
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