V・ガルダフスキ『死に果てぬ神』1971,キリスト教とマルクス主義の無神論、実は根底で通じた縁戚関係か

この本の刊行の時代、まだ鉄のカーテン、共産主義国家が
厳然と東欧、ソ連に存在していた。マルクスは周知の通り、
「唯物論」であり「宗教はアヘン」という態度である。だか
ら共産主義国は原則、宗教否定である。現在は中国、北朝鮮
などが該当する。これはまだ冷戦時代、チェコのマルクス主
義者による本であり、「神に対する信仰よりももっと感動的
に作用し得る人間的推進力はなにか」を追求している。これ
が全てでもないが。
「人間的推進力」を日本語でどう言い換えられるだろうか。
まあ、意味内容はわかるが、「生きがい」などというと、明ら
かに異なる気がする。この時代はチェコスロヴァキア、で今の
ようにニカ国に分裂していない。そのマルクス主義者にとって
この根源的問題を解決しないことには、マルクス主義無神論は
キリスト教に勝利できないのである。非常に根源を揺する深刻
な問題なのだ。
著者はキリスト教との対話を行う。その方法はラジカルなの
だ。徹底して根源を探ることなのだ。著者はまずは、聖書とア
ウグスティヌス、パスカルなどを扱う第一部「記念碑」の中で
キリスト教の根源を徹底的に突き止めようとする。同時にマル
クスの無神論の根源を探ることにも通じる
旧約聖書を「ヤコブ」新約聖書を「イエス」に割り切る文章
は分かりやすくもある。アウグスティヌス、トーマス、パスカ
ルら三名の哲学者について論じる部分、カトリックを中心とし
た現代のキリスト教思想を扱う第二部「有神論」の自己反省、
は日本人には馴染みにくい。ヨーロッパの宗教思想にまず日本
人は通じていない。
宗教は社会の敵、という無神論とマルクス主義無神論の違い
も明らかにしている。
だがどこかでキリスト教の最深部とマルクス主義がどこかで
通じている、とも思わせる。
第三部「無神論の自己反省」は無神論の各タイプを解明して
いる。ここで「実用的無神論」と呼ばれている人々、まあ、日
本人はそうだろう。日本人の本質は無神論だ、といって哲学的
に無神論というのではなく、要は「神様なんかいるはずない」
仏教徒だから?仏教に神はない、だが葬儀仏教化した日本の仏
教は「死んだら誰でも仏様」という石材屋レベルの酷いものだ。
宗教自体への憎しみが根底にある日本人、無神論以前の無神論
であろう。この節「無神論のプロフィール」では、精神の喪失、
現実と遊びの近藤、スポーツファンの熱狂、宗教セクトなどが
述べられている。最後は「形而上学としてのマルクス主義的無
神論」
私は日本人の無神論は自然のあらゆるものに神を認める神道、
本来の伝統において西洋的な一神論に否定的なだけで、八百万
の神は受け入れているはずだが、西洋的な神の概念とはかけは
なれている。キリスト、イスラムの一神論に日本人が無縁なだ
けだと考える。同時に葬儀産業化した仏教の死者崇拝も実は、
古代からの死者への怖れという心理が流れている、にすぎない
とも思われる。
ならばマルクスの無神論もすぐれてヨーロパ哲学の固有の
伝統に根ざすもので「無神論」ということ自体が一神論をその
中に取り込んでいるとしか思えない、のである。
マルクス主義が実はキリスト教の精神の派生した人工的な
思想というのは非常に説得力はある。いわば同じ穴のムジナ、
というと言葉は悪いが、真実を穿つと言わざるを得ない。
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