武田泰淳『黄河海に入りて流る』1970,中国についての随想集、武田文学の根底をなすもの

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武田泰淳、1912~1976,武田泰淳にとって中国はその文学
の根底をなすものである。武田泰淳と中国との出会いは、ま
ずは東大文学部支那文学科に入学したことである
、『史記の世
界』に改題したが、その冒頭の一節がそれを示すはずだ。さ
らに戦時下に書いた「北京の輩に寄するの詩」、「支那文化
に関する手紙」、あるいは「土民の顔」などの随想に潜んで
いる。どこまでも中国文学を、中国を愛した武田にとって、
まったく一兵士として中国戦線に駆り出されるのは、あらゆ
る意味で屈辱、恥辱だったはずだ。武田はそこで戦争の惨憺
たる姿を眼にした。物言わぬ中国人の屍、無惨に砲弾で破壊
された民家、武田が中国大陸から国内に書き送った手紙にこ
うある。

 「土民の顔は黒く日焼けし、素朴に見えますが彼等の心は
青黒く青い渕のようです。子供でさえ、何という鋭い知恵の
働きを蔵しているのでしょうか。我々兵士が交際するのはか
かる心を持った貧困な土民ばかりです。これ等の住民はおそ
らく大部分の支那研究者の眼にとまらなかった輩でしょう」

 また野戦予備病院のランプの下、怒りを込めて「北京の輩
の寄するの詩」

 キリストを裏切ったユダは、裏切り者になったことでキリ
ストとともに生きることができた。武田泰淳は中国に対する
心の傷を自覚することで、日中の両国の問題をより深く捉える
ことが可能となり、その文学世界を構築した。

 武田泰淳の中国についての随想は多く「わが中国抄」、「
揚子江のほとり」がそれまでにはあったという。この随想集
は中国への思いを綴ったエッセイの集大成となる。昭和10年
のものから1969年の発表のエッセイまでを含む。

 人類史上、最大の悲劇と言ってさしつかえない日中戦争、そ
れが忘れ去られようとしている現代の日本である。内容は五部
になっていて、一兵士として中国大陸に応召した時代、中日文
化協会に関わって上海に渡った時代、新中国以後、数多くの訪
問、その後の文革に至る時代の見聞、多くの思いが綴られてい
る。


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