尾崎一雄さん『まぼろしの記』随想的作品、さまざまな出来事を温かく語る

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 尾崎一雄さんは私小説作家とされる、事実そうである。『
虫のいろいろ』は非常に好評な作品だが、この作品について
は中央公論「日本の文学」の三島由紀夫の解説がまことに的
を射ていると思えた。そこでは「この作品は世の人々が軽率
に想像するように虫にこの世の思いを託したものではない。
実はこの作品は陰鬱な作品なのである。・・・・・最後は
『私は不機嫌になってきたのだ』でピシャリと決まる。これ
が短編の呼吸と云うものだ」つまり尾崎さんの作品は一見、
わかりやすいように見えて「軽率」に想像するだけではだめ、
ということだろう。でも、ここまで鑑賞眼のある三島のあの
行為はどう説明できるのか、とは感じるが。

 そこで尾崎さんの作品でもよく知られている『まぼろしの
記』心境小説という私小説の一つのタイプにしても、味わい
深いものがある。終戦の前の年から病で小田原近くの郷里に
ずっと住んでいた尾崎さんが戸数が60ほどという小さな集落
で次々に起こる出来事、事件、内容は多彩で恋愛事件めいた
ものもあるが、雑多な出来事を実に静謐な気持ちで受容し、
それらに対し、格別、批判も加えようとせず、逆にどんなこと
にも、いたって温かい同情的な気持ちで描くのである。

 「それらは、妻をアンテナとして私に伝わる。直接、隣り近
所とつながるのは妻だからだ。もっとも、このアンテナは感度
が鈍いため、ニュースの鮮度は落ちるのがつねだが」

 という具合で尾崎さんは実際に歩くのも自宅の庭ていどと
云うことは想像できる。

 そういう生活の中でも、その狭い範囲の隣近所の出来事を書
き綴っている自分への周囲の眼も気にはなるようで、「何を
[やくたい]も無い、のんびりしてやがる、と人は腹の中で
笑っているかもしれない」とも。

 別に隣近所の些末な出来事など普通は無視したり、、見過ご
しそうなものだが、『虫のいろいろ』などに見られる周囲や自
然への気配りも興味深い。見過ごす人は見過ごしてしまう、だ
がそこに何かを見出す、観察する心がある、貴重である。

 1983年3月、昭和58年だったろうか、尾崎一雄さんは亡くなら
れた。その翌日の夜、NHKラジオで追悼番組が放送されていた。
その少し前に亡くなった小林秀雄さんへの追悼文が絶筆となっ
た。小林秀雄さんは大変な苦しみで死を迎えたようだ。尾崎さ
んはあっさり、やすらかに、亡くなられたようだ。それを評し
てか、さらに広い意味で、発言者は文芸評論家だと思うが、だ
レだったか、その人の発言が追悼番組にの最後の言葉だったが、
尾崎一雄さんの生涯をも言い表している、と思えた。

 「本当に幸せな男だよ」

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