藤沢周平『白き瓶』(しろきかめ)1986、長塚節の数少ない本格評伝

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 私は最初、初めて旺文社文庫で長塚節の『土』を読もうと
したが本当に読みにくかった、中学生だったからは当然とし
ても夏目漱石の作品なら中学生でも読めて、同じ時代くらい
かと思われた長塚節の『土』はとにかく読みにくい、難渋し
た。しかし農民文学の代表作とも云える『土』、その作者、
長塚節は歌人としてまず有名であり、明治から大正にかけて
秀歌を数多く作ったという。『白き瓶(かめ』』はその長塚
の生涯を描いた評伝だが、それまで時代、歴史小説がメイン
だった藤沢周平にしはちょっと異色作だろう。

 ただし長塚節自身、非常に地味なキャラクターである。この
点は重要だと思える。長塚節は茨城県結城郡岡田村の豪農の家
に生まれたが、地方の政治家だった父親の浪費で家運は傾き、
長男の節が母親とともに家を支える立場にあった。病気で旧制
中学を中退、その療養の中で知った正岡子規の著書、アララギ派
、水戸中学時代から短歌を手掛けていたが正岡子規の『歌よみに
与うる書』に感銘をうけ、根岸庵の子規を訪ね、そこで門人とな
った。子規は間もなく亡くなり、伊藤佐千夫とともに根岸短歌会
の主要メンバーとなった。「馬酔木」、「アカネ」などの同人の
仲間らと、その交友を通し、短歌に精進する長塚節の姿を描いて
いる。

 牧水並みに旅を好み、家の重圧から逃れるためか、何度も旅を
行った。旅で受けた感動を歌にし、その先々での自然から受けた
影響、感動を歌にした。基本は正岡子規の「写生」論である。だ
が徐々に自身の個性を生み出し、歌論で仲間たちとの批判、対立
も生まれた。伊藤左千夫とは対立を深める。

正岡子規から斎藤茂吉に至る、歌壇の流れ、変遷を背景に、明治
末期の歌人の動向を書き込み、歌から写生文へ、さらには小説に
情熱を燃やした彼が漱石の推薦で朝日新聞に『土』を連載するそ
の事情をも描く。その後は旅を続け、闘病の日々、晩年は歌への
情熱を蘇らせたが、病状は悪化、旅の疲労も蓄積、「鍼の如く」
五篇を残して1915年、大正4年1月に37歳の生涯を閉じた。

 生涯は、旅、歌、病で至って純粋ながら地味すぎた。だから、
いかに長塚節を造形するかだが、著者はまさに克明にその人間像
を描いている。『白き瓶』しろきかめ、はその一首からとったも
のだという。

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