大佛次郎『織田信長、ー炎の柱』大魔王をダシにした儚い戦国の人間風物詩

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 大佛次郎、晩年の歴史物の長編である。1962年刊行、その
後に『パリ燃湯』その後『天皇の世紀』、だが最初は、勤王
いい人、という戦前の雰囲気を活かした『鞍馬天狗』、その
生涯の作品歴を見たら本当にあきれるるほどの多作、よく書
けたものと驚く。その歴史認識は「中正」というべきか、イ
デオロギッシュではない。誰でも安心して読める作品である。
その大佛次郎が織田信長を描けばどうなるか、いまさら新たな
資料も乏しく斬新な人物造形など難しい、・・・・

 しかし、ありきたりな大魔王、織田信長を描くのが目的とも
思えない。歴史の真実、人物の真の姿は知りようがない、昨日
のことも分からないのだから。基本は通説に従った戦国人間模
様である。私が小学生の頃、「もし現在、織田信長が生きてい
たら」という「なぞなぞ」、答えは「日本の人口がひとり増え
る」だった、それはさておき、やはり織田信長は尋常ではない。

 征服欲の権謀術策の極み、信長は何人でも焼き殺す、諸国の大
名、比叡山延暦寺た石山本願寺という宗教勢力、数しれぬ婦女子
も容赦ない、それらの命に従うことを拒み、自ら利き腕を刀で切
落とす武士、戦場離脱者であって戦場を離れえない桶狭間以来の
旧臣、沼沢木斎なる架空の人物をこしらえて恰もギリシャ悲劇に
おける合唱隊のような役割を与えている、

 実の娘の徳姫の婿、恩義ある家康の長男信康であるが、将来の
危険分子として命じる、歴史上の真意は分からないが、異常であ
る。これを「鬼だ」と徳姫も、その兄、信忠も、家臣も歎くが聞
く耳はない、ここまでやったのだから光秀の隙をついた襲撃で命
を落としたのも報いというべきだろう。

 作品は徳姫と信忠を主人公的な人物として設定しているようだ
が、・・・・・・大佛次郎は今さら、信長鬼畜論を咆哮するわけ
でもない、しょせんは常識論だろう。実はもはや加害、被害者の
対立の彼岸に作者あるようだ、「東にし哀れさひとつ秋の風」と
いう芭蕉の「標語」なのだ。別段、信長鬼畜の人物造形もない。
動乱期を平定のエネルギーの賛美も毛頭ない。叙事詩でもなく、
叙情もない。全く戦国の馬鹿げた儚い、人間の愚行、諸行、悪行
のむなしさによせた人間風物詩とでもいうべきだろう。

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