開高健『見た揺れた笑われた』1964,奇妙なタイトルの短編五篇、私小説のパロディ化という実験

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 奇妙なタイトル「笑われた」、「見た」、「揺れた」、「太
った」,「出会った」という短編が収められた一冊。これらの短
編は実は精神的な意味合いで関連を持った短編の集まりであり、
文学の一種の実験的意味合いがあるようだ、単なる作品集では
ないわけだ。それは日本文学に染み付いた私小説というジャン
ル、のパロディ化を目指したもののようだ。

 まずは、とりあえずは私小説である。開高健は1947年、昭和
22年に旧制中学を出て1953年に大学を卒業している。だがその
道は平坦ではなく、中学、高校、大学を通じて勤労動員に始ま
り、パン焼き、旋盤工、翻訳のバイトなど、ついにまともな青
春、学生生活は無縁だった。

 学生時代に女性詩人と結婚、娘を一人もうけている。1958年、
昭和33年に芥川賞受賞、それで実際はマスコミの修羅場に放り
込まれる。このような若い時代の生きざまはが、その短編集に
申し分なく反映しているようだ。短編の連作形式の私小説だろ
う。

 といって私小説と云って、尾崎一雄さんや葛西善蔵さんのよ
うな、いうならば精神の詩的結晶がない。そんなものは最初か
ら目指していない、のだろう。開高流の終戦前後に始まる猥雑
、無秩序な現実とその後の修羅場の連続である。

 その後、大企業に入社、安定したようなサラリーマン生活も
あったのだが、それは意図的にカットされている。あくまでも
不安定で猥雑な現実を、いかに掬い上げて書き上げるか、だけ
である。

 本のタイトルも「見た 揺れた 笑われた」という現実をあ
たかも標語化したようなものとなった。私小説のパロディー化
といえるだろうが、実はそれさえ目指したとは思えない

 短編でもっともテーマ性があるのは最初の「笑われた」だろ
うか、「書毒」に取り憑かれ足す人口が、自分なりの文章をこ
うとしても、一行も書けない。そういう19歳の主人公に妻は子
供を生みたいという。出産の夜、部屋の入口で恥ずかしさで立
ちすくむ主人公、「書が散った。男は手も足も震えてしまい」
そんな主人公は看護婦たちから笑われる、不確実で猥雑な現実
に向かうと、必ず「笑われる」と言いたいのだろう。いい作品
だ。

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