池田大作、創価学会元会長死去、天才的な大組織指導者、非凡なる凡人が結果として神格化
創価学会第三代目会長だった池田大作氏が95歳で死去された。
戦後の日本を最も象徴する人物である。池田大作元会長亡き後
の創価学会はどうなるだろうか。ある意味、御幣はあるが、池
田経と云って差し支えない、創価学会である。
池田元会長は偉大なる宗教者であったのだろうか?その資質、
雰囲気は乏しい。何よりも大組織をさらに拡大し、維持してゆ
くカリスマになり得たが、正直、凡庸さは否めない。紛れもな
く凡庸だが、非凡である。あれだけの組織拡大をやり遂げたそ
の手腕は並外れている。
戸籍上は1928年、昭和3年1月2日、東京の大森の海苔加工販売
業の池田巳之吉の五男として生まれた。家業は芳しくなく、一家
の生活はかなりどん底だった、という。しかも生来の病弱だった。
小学校、高等小学校を出て東洋商業学校に入ってまもなく肺の病
に侵され、茨城県鹿島で療養生活、この療養生活が池田元会長を
成長させた面はあるかもしれない。だが学業は放棄せざるを得な
かった。富士短期大を一旦は中退。・・・・・戸田城聖に出会っ
たのは終戦後間もない頃だった、1947年、昭和22年、8月14日と
されている。まだ19歳である。あの時代、職もなくないないづく
し、学校も出ておらず、『池田大作論』によれば、苦難の人生
の池田大作氏は焼け跡をさまよう放浪者に近かったともいわれ
ている。時代が時代だから仕方はないが。そこから創価学会に
入会した。
激動、混乱を極めた戦後日本、そこで折伏に池田元会長は
荒れ狂い、その実績から青年部の有力な幹部となった。会長就任
は戸田二代目会長の実質的に指名だった。「次期会長は青年部か
から出す」との遺言、池田大作しかいないかわけである。
会長就任後は組織統率、指導力発揮、それまでの折伏に荒れ狂
った姿は仮の姿、会長就任後の態度こそ真の姿であったはずだ。
1960年5月3日、日大講堂での会長就任挨拶でこう述べた。
「初代会長、牧口常三郎先生、また二代目会長で恩師である
戸田城聖先生の、総本山に尽くされたその心を心として、私
は全学会員を代表し、日蓮聖人猊下に、より以上の御忠誠を誓
うものであります。創価学会は全大衆の味方です。敵は邪宗教
です。邪宗教は人々を地獄に落とす。正法は仏にする。一切の
不幸の本源は邪宗教にあり、との日蓮大聖人の、御金言がござ
いますが、その御金言どおりに獅子奮迅されたのが、恩師、戸
田城聖先生であります・・・・・・」
戦後は日本は創価学会、池田会長とともにあった、といって
過言ではない。凡庸に見えて非凡である。そこから創価学会の
カリスマとなると同時に、世間からありとあらゆる批判、誹謗中
傷、罵声、攻撃を受ける存在でもあった。天才的な個性はない。
全くないと言える。だがあの凡庸さであそこまで神格化はいわば
日本的な天皇的な神格化であろう。これは日本という国を理解す
る上で重要だ。
途中から政治に進出、「参議院にしか進出しません」と言いな
がら公明党立党、それいぜんは候補は「無所属創価学会」と言わ
れていたものだった。以後、日本共産党との関係改善、宮本顕治
との対談、だが破綻し、反共の砦となった。松下幸之助との対談
も話題をまいた。国連平和賞受賞、・・・・・・。
創価学会はいつしか池田教となっていった。日蓮正宗という釈
尊よりも日蓮、さらに日蓮よりも実は池田大作、とは云わないが、
本質はこれである。だが今後は不確かである、と言わざるを得な
い。私は池田元会長の死により、神格化が深化確定、逆にまとま
る可能性もあると考える。
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