岩下俊作、直木賞受賞を逸した理由と無法松のモデル

『無法松の一生』で永遠の文学的生命を誇る岩下俊作。1906
~1980,だが1940年上期の直木賞受賞は逸している。実は岩下
の『富島松五郎伝』でほぼ決まりかけていたが、菊池寛が横か
ら「堤千代女史はご病気で寝ているそうじゃないか」と同情票
を与え、文壇の大御所、文藝春秋のオーナーの言葉だから、「
堤千代」が『小指』などで直木賞を受賞した。『富島松五郎伝』
はその後、大映京都撮影所で映画化され、タイトルを『無法松
の一生』とした。正直、『富島松五郎伝』では庶民の夢を奪い
かねない。以後全国区の文学賞受賞はないと思う。受賞を逃し
たせいで、上京の機会を逸して生涯、九州に住んだ。
その岩下俊作が亡くなったのは1980年、昭和55年1月30日であ
った。小倉生まれの小倉育ち、火野葦平は若松である。典型的な
小倉っ子だった岩下は、その郷土の香り、風土感を無法松に込め
た。無法松が祇園太鼓を乱打、映画では阪妻の祇園太鼓の場面は
日本映画史上の名場面だと思う。
『無法松の一生』は人力車が重要な役割を果たすが、岩下俊作
、本名、八田秀吉の父親は人力車の立て場を営んでいた。初次郎
といった。初次郎は漁師町の長浜で生まれ、台湾で従軍したとも
いう。カナダに出稼ぎに行ったほど、血の気が多かったという。
戦争末期にも岩下は直木賞候補にもなっているが『辰次と由松』
には父親の姿が投影されているという。
岩下は幼い頃から父の立て場に集まる人力車夫をつぶさに観察
し、それが作品『無法松の一生』に結実した、ということだ。
北九州在住の岩田礼が「九州人」に連載した「無法松一代」によ
ると、明治末年に小倉で車夫をしていた松島市五郎という人物が
モデルだという。その市五郎は暴れん坊で通っており、警察の剣
道の教官と渡り合った、というのは実話だという。岩下俊作は、
父の立て場での見聞からヒントを得ていたと思われる。その実在
の市五郎が松五郎である。
『富島松五郎伝』のち改題の『無法松の一生』は、小倉の古船場
に住む松五郎という無法者、暴れん坊の痛快にして、またほのかな
愛の物語で人物造形が見事だ。映画化し大ヒット、永遠の文学にな
り得た。やはり1943年版の阪妻、また未亡人の園井恵子の好演が、
永遠の無法松像を作ったといっていい。無論、原作自体がいいわけ
だが。やはり「無法松の一生」への改題は正解だった。
若松出身の火野葦平は「岩下は『無法松』一作しかない、運命が
翻弄された、気の毒だ」と云ったというが、では火野葦平に何があ
るだろうか、軍国主義に協力と批判を受けた「麦と兵隊」など、ま
た任侠の『花と竜』悪くはないだろうが、まったく人気はない。岩
下俊作はたった一作で永遠にその名を遺したではないか。もはや直
木賞受賞のことなど問題にもならない、大衆的な栄誉をうけたわけ
である。
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