EVはイコール、バッテリーである。中古車価値はなく、中古車概念も乏しい。エンジン車は半永久的に使用できる

既成メディアはEV,つまり純BEVのことだが、その致命的な
欠点をひたすら隠蔽するだけだが、真実の口を塞ぐことは出
来ない。
EVの歴史はエンジン車より古いし、実際、エンジン車に先行
して製造販売されていた、戦後も石油事情やエンジン技術の困
難さ、多数のパーツの製造、入手の困難さもあり、EVと木炭車
を国民車としようとした日本政府だったが、結局、EVは国民車
に早々とならず脱落した。後日、日産に吸収されたプリンス自
動車はエンジン車の製造困難、石油輸入至難とガソリンスタン
ドの未整備などから1950年、昭和25年過ぎまで実際、EV専業
メーカーだった。
だがエンジン車の数知れぬ困難さがあるにも関わらず、現実、
EVは全く定着しなかった、メーカーもプリンスのEV放棄で国内
からEV製造は消えた。その理由は、・・・・・である。それだ
けの理由があるのである。基本的にその理由は変わる点はなく、
むしろ増幅している。だが既成メディアはそれを隠蔽するのみ
である。莫大な補助金でEV購入を国は強引に促進するが、EV
を持ってもう懲り懲りというユーザーが多いのである。
EVの基本はおもちゃの車、ラジコンカーと共通である。電池
でモーターを回す、それだけである。あまりにシンプルだ。も
し小さなラジコンカーを超ミニエンジンを製造し、走らせよう
としたら、そのコストは見合うものではない。
だが人が乗り、物を運ぶ大きさ、街を走る存在となったらど
うか、事態は深刻である。EVの原理的な困難さはない。だが
、乗用車、トラックとなると、・・・・・・。明らかなメリッ
トは排ガスを出さない、大気汚染を惹き起こさない、また静粛
性で騒音でさほど迷惑をかけない(無論、モーター音も回れば
かなり騒々しいが)
だが欠点は公称電費のより実際は遥かに悪い、一度充電満タン
(実はEVのバッテリーは100%充電は不可能である)しても、
実質航続距離は短い。搭載バッテリーで全てを賄う、重量を極
めるバッテリー搭載の車体、あらゆる電装品、あらゆる機能部
品は電気で作動するから必要な電気量は莫大である。特に寒冷
期、寒冷地帯での使用な問題でバッテリー切れは即、死を招き
かねない。またガソリン、軽油のようにレスキュー隊が持ち運
んで簡単に給油、は不可能である。充電に長く時間がかかり、
充電機器の持ち運びもどう考えても現実的でない。
バッテリー電源だけに依存の走行での実質電費は非常に悪く、
航続距離は短い、 充電時間が長い、30分充電でこまめに、なら
充電回数が増えるだけである。ガソリン車のように超短時間でガ
ソリンを供給したらいくらでも走れるのと根本的に異なる。
BEVのバッテリーはHEVのバッテリーの100倍以上の容量が必要
である。
したがってBEVのバッテリーは重量が異常にかさみ、またリチ
ウムなどのレア資源が莫大必要である。リチウムはリサイクルで
きない。価格の高騰が既に著しい、
バッテリーを激しく放電、充電を繰り返すわけだからBEVの
バッテリーの寿命は5年を超えることはまずない。使用の状態
によるが、バッテリーの価格の高さ、レア資源の濫用による資
源の窮迫は今後深刻さするだろう。
実質、BEVとはイコール、バッテリーと云ってなん過言でも
ない。バッテリーの寿命がBEVの寿命である。スマホと変わる
点はない。いくら大切にバッテリーを扱ってもバッテリーは
老朽化して使用に耐えなく成るだけである。
エンジン車も使用によって老朽化してもパーツ交換、OHを
行うことである意味、半永久的に使える。車種によるが、長
く乗れば乗るほど価値を上昇させる事ができる、中古車が意味
をもつのである。
BEVの寿命はバッテリーの寿命でスマホと同じである。いく
ら丁寧に乗っても扱っても、バッテリーはひたすら死に向かう
運命にある。エンジン車は大切に扱い、パーツを交換すれば
いくらでも乗れる。
国はBEVの中古バッテリー流通、使用を提唱しているが、バッ
テリーはバッテリーである。ただ死に向かう消耗品であり、再
生もリサイクルも出来ない。よほど早く愛想が尽きてBEVを手放
した場合のみBEVの中古車は意味を持つが、基本的にBEVに中古
車の価値は基本的にないのは当然である。
バスのディーゼルは健康被害が著しい、これらら大気汚染、
健康被害の防止の為EV化は確かに意味がある。完全に使用が
定型化し、充電設備も完備し、なら社会的に好ましいが、しか
しバスのEVでもバッテリーの寿命はさほど長くはない。バスの
ように早期にEVバスの廃車システムが確立されるなら意味は大
きい、現実化出来るが、その費用にバス会社が耐えられるかで
ある。
想像を超えるリチウムなどのレア資源、さらに典型は銅資源
のように非常に埋蔵量の乏しく、また必須の資源を考えれば、
資源濫用の「脱炭素政策」、あげくの「人新世」思想が継続は
不可能なことは明らかである。
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