三島由紀夫はなぜ太宰治が嫌い?、その真の原因を探る、超地主が実家の太宰と超貧農がルーツの三島、三島の煮えたぎる劣等感


 周知の事実だが、三島由紀夫は太宰治の作品を嫌って、坂口
安吾を称賛した、という事実がある。坂口安吾がいい、という
のは確かにわかる、わかるが、なぜ太宰が嫌い、だというのか。
軟派な文学だから嫌いだというのか、・・・・・実は二人は戦
後、まもなく一度だけ出会っている、一対一ではなく、太宰の
座談会にまだ学生の三島が参加したのである。すでに太宰は有
名作家だったが、まだ三島は一介の学生だった。だが太宰の死
後、有名になった三島は太宰の作品と生活を声高に批判した。
なぜだ?その一度の邂逅、は何を教えるかだ。

 戦後、太宰治は戦争で散華した多くの学生に限りない同情を
示し、戦後の学生たちに限りない愛情を示していた。その思い
を綴った小説、随想も多い、「乞食学生」、「正義と微笑」、「
新郎」、「散華」、「みみづく通信」などの小説、さらに「困
惑の弁」、「心の王者」、「諸君の位置」などのエッセイ、

 練馬で出英利という学生、満州で戦士した出哲史の実弟が太宰
担当の編集者の野原一夫氏を訪問、「自分たちの文学仲間が太宰
さんに会いたいと云っている。仲介してほしい」と頼んできた。

 1947年、昭和22年1月26日、野原さんらは三鷹の太宰を迎えに
行った。三鷹から国電に、中野駅の南口に出た。亀井勝一郎は
既にきていて笑いながら手を上げた。7,8人の学生もいた。
野原の記憶では、その青年の中に紺絣の和服をきっちり着た、
色の青白い目のギョロッとした青年がいて、非常に異質に見えた
、という。出英利が野原さんに「あれは三島由紀夫だ」と教えて
くれた。心身の学生作家だったようだ、作品は「岬にての物語」
という短編を読んでいたと野原さん、だが印象にはなかった。
太宰治も三島由紀夫を知っていたとは思えないという。

 中野駅南口からバスに揺らて、畑と雑木林の練馬区の豊玉とい
うところでおり、そこの家の二階に上がった。お酒も出た、酒席
だった。座は賑やかだった。

 酒も飲まずひとり神妙な顔していた三島が、森鴎外の文学につ
いてなにか質問をしたという。太宰は「鴎外もいいが、全集の口
絵のあの軍服姿はどうかな」とつぶやいたという。

 その後、三島は「ぼくは、太宰さんの文学が嫌いなんです」
と太宰の顔をまっすぐ見ていったという。一瞬、座はシラケた。

 太宰は「嫌いなら来なけりゃいいじゃないか」と吐き捨てるよ
うに太宰はいって顔をそむけたという。出英利らも「そうだ、嫌
いと言うならなぜ来たんだ」と怒鳴った。だがシラケた時間は短
く、すぐ太宰が座を和やかにした。その青年たちの中には矢代静一
一や詩人の中村稔もいたという。

 1963年に書かれた三島の「私の遍歴時代」で太宰にあったんは
「斜陽」の連載が終わった昭和22年の秋だと書いている。無論、
誤りである。その年の1月でまだ『斜陽』の連載は続いている。

 実は三島が太宰を嫌いだ、という原因は『斜陽』にあったこと
は間違いない。

 三島は

 
「稀有な才能は認めるが、最初から私にこれほど生理的な反発
を感じさせる作家もめづらしい」

 太宰が戦後、学生たちを熱狂させ、太宰熱は高まるばかり、
 
 「私の周囲の青年たちの太宰熱、『斜陽』の発表当時絶頂に
達した。そこで私はますます意固地になって太宰が嫌いを標榜
するようになった」

 「言葉遣いといい生活習慣といい、私の見聞している戦前の
旧華族階級とこれほど違った描写を見せられたら、それだけで
いやけがさした」

 「そんなこんなで私の太宰嫌いが有名になって、友人たちは
私を太宰に会わせようとした」

 三島の作り話であり、昭和22年の1月であり、秋ではない。
そもそも、この時点で『斜陽』はまだ構想の段階だったのだ。『
斜陽』が野原一夫氏のすすめで『新潮』に連載が始まったのは、
その年の、昭和22年、1947年の7月からだったのだ。だから別段、
太宰人気は絶頂でもなく、熱狂もなかった。うるさく三島が太宰
批判をする理由もなかった。座をシラケさせた、あの場面の様子
も三島は意図的な虚偽を述べている。

 三島は『斜陽』の旧華族階層の描写が気に入らないから、とい
うがそれは理由にならないことは明白だ。あとから作ったウソで
しかない。

 『斜陽』を三島が理由とするのは虚勢である。

 まずこの文章を読んでほしい、三島の乱入自決後、わずか三ヶ月
ご後二「農民文学」に寄稿された文章だ。

 「世間では三島を貴族だとか、お公家様とか、信じているかの
ようだ。本人もそれを信じ、そのように振る舞い、話すところか
ら全くの間違いが生まれ、世間に広まった。平岡家の分家三代目
の三島由紀夫、平岡公威は自称貴族で振る舞うが、初代の祖父、
平岡定太郎は完全に貧農からの成り上がりであり、三島はそれを
知り尽くしていた・それで三島はとことんそれを隠し通し、優雅
な家系であるかのように振る舞い、誇示した。胸の底にうめく、
貧農コンプレックスを、貴族のポーズを演じることで克服しよう
としたことは紛れもない事実だ」

 かって作家の杉森久英が「われわれの仲間では三島由紀夫は
貴族の出であるという思い込みがあった。三島にあったとき、
『あなたは三島子爵の子孫ですか』と尋ねたら三島は否定した
自分お家柄はそんなものではない、並の物じゃないという雰囲
気さえ漂わせていた」

 三島の作品からは強烈なのは、貴族的な佇まいに強烈な憧れ
がああった、ことは否めない。そもそも、それは戦前は「決め
られた高貴な家族と武家の師弟しかないれない」という世間の
誤解に便乗した三島の演技と言える。戦前の学習院は「庶民枠」
があり、庶民でも官僚で出世とか非常な経済人、著名な学者の
師弟は入ることが出来た。三島が「学習院」に入れたのは高貴
な家柄からではない。庶民出世枠、である。祖母は旗本の娘
は関係はない。三島は自分の体内を流れる播磨の貧農の血を恥
じた。隔世遺伝とは云うが、三島の顔は定太郎とうり二つであ
る。貧農から出た、祖父の苦学力行のためである。平岡公威が
普通の学校に入っていたら、貧農の血を意識もしなかったの
だろうが、学習院などに入ったために三島、平岡公威は貧農の
祖父の官位立身出世で学習院に入れた、という劣等感、貧農
コンプレックスに苛まれ、人生の全てを虚像演出にかける決
意を固めた、ということだ。

 鶴射殺、子供時代に鶴を弓で射殺した定太郎の父、太吉、
所払いになったがこの太吉から平尾家の勃興は始まった。話
せば長いのでここでは書かない。

 定太郎は御影師範から早稲田専門部、そして東京帝大法学部
と努力、苦学した。樺太町長官に出世した。転落はしたが、こ
の庶民の出世は孫を学習院に入れる資格を有していた。

 三島の父、梓も「倅・三島由紀夫」で「平岡家は田舎の豪農
、塩屋としての誇りを堅持していた」と全くの虚偽を書いてい
る。

 檀那寺の調査、を依頼された岡住職は過去帳から平岡家の
祖を辿った。これも他の記事で書いたから述べないが、「番人」
、「水夫」という汚名さえあったという。岡住職によれば「ごく
ごく普通、実際は貧農でした」と言い切っている。

 平岡梓の云う「赤門事件」、「豪農塩屋」を岡住職は一笑に
付したという。

 別段、農民を百姓というくらい、日本人は基本、みな農民で
あったわけで、それが貧農の出でも恥じる部分はなにもない、は
ずだが三島由紀夫は違った、庶民出世枠で「学習院」にはいった
ばっかりに祖先が貧農の出ということは想像もできないくらい、
三島にコンプレックスになったわけであり、「いかなることを
しても貧農出」を隠蔽する行動、つまり虚像の演技にすべてを注
ぐ、となった。自衛隊総監室に乱入、はらきり、介錯も「俺は武
士の出だ(祖母は武家)、百姓なんかじゃない」と絶叫のための演
技、しかも生涯最後の演技だった。

 対して太宰は青森県有数、というよりトップの大地主の家に
生まれた、戦前から家系から衆議院議員、貴族院議員も輩出、
戦後も現在に至るまで国会議員を連綿と輩出である。長兄は青森
県知事、津島家は「金木の殿様」であった。

 貧農コンプレックスに煮えたぎる三島が太宰を憎む、のはこの
自らの超劣等感からくる太宰治への嫉妬に由来は明らかである。
「私の遍歴時代」で「斜陽」が原因だ、などと捏造の理由を述べ
ているのもその傍証だ。

 太宰治の実家、現在は「斜陽館」

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