池田大作元創価学会元会長の少年時代、やはり並の人物ではなかった、と言わざるを得ない


 池田大作元創価学会会長が死去して一週間くらいか、池田
元会長は十数年前から事実上のリタイア、学会は池田後に備
えてきたから、別に組織に動揺などあるはずはない。

 そこで池田大作氏とはいかなる人物であったか、一見、凡庸
の極みである。そのイメージからか外部からこれほど誤解され
続けた人はいない、反創価学会、創価学会に好感を持たない人
は実に各層に渡って多い。池田元会長ほど、誹謗され、攻撃さ
れた人もいないだろう。確かに人格高潔ないわゆる宗教者には
見えないし、さりとてヒトラーのようなキ印で天才的な人物で
もない、冷酷な官僚タイプではないし、また浅ましく姑息に、
巧妙に立ち回る政治家タイプでもない、至って庶民的な人物
である。もし一冊の本で池田大作氏を相当部分、理解しようと
いうなら中正、客観的立場から池田大作氏を少年時代から綿密
に描いた『池田大作論』1969年4月、央忠邦、放送記者による
著書しかないだろう。完全に描き切るなど、誰の手を持ってし
ても不可能だが、偏見と先入観を可能な限り除いて綿密な著述
である。正直、池田元会長ほど、外部から誤解され続けた人は
いないと思う。凡庸だが非凡、だから何か人を騙しているので
は、と悪意で見られたりした。ぜんぜん違う、と思える。本質
を見なければならない。批判本では到底分からないところであ
る。

 池田大作氏が央氏に語ったという

 「ノリ製造って因果な商売ですよ。寒い冬のとき、寒いほど
いいノリが出来るから夜中に起きて、井戸水を汲み冷たい水を
使わないといけない、乾いた頃に成ると、風でノリが吹き飛ば
されないようにしないといけない。しもやけ、あかぎれが出来
る、東北などから手伝いに来るが、兄たちが出征してからは、
身体の弱い私にノリ作りの仕事が重くのしかかった」

 池田元会長の兄の一人の回想

 「家が斜陽になった原因は、大作が小学二年になったころ、
父親がリューマチで寝込んだことがある。約五年間、仕事がで
きなかった。母親が父の代わりに働いたが、大作は小学二年の
頃から手伝いを始めた。兄たちが出征して、家のことを一番や
ってくれたのは彼だった。体は弱く、名前に凝っていた父親が
大作なんて名前をつけたんですが、私は親からよく叱られまし
たが、大作が叱られているのをみたことはないくらいです。親
でも兄弟でも、相手の気持を読み取って素早く行動してました。
それで上の兄弟が親から叱られる要因になったかもしれません。
ウソはつかない男でした、それで非常に敏捷です。相撲はよく
年下なのにやられました。いまでいうなら海乃山みたいと云う
のか、体力は弱いが敏捷で簡単には捕まえられない、あせった
ら奇手でやられました。体は確かに弱かったと思います。でも
弱いことを兄弟に感じさせない努力をしていたと思います。
快活に振る舞い、自分に厳しい人間だった。一般の人は知らな
いと思いますが、『大作はいまに偉くなる』と親戚などから、
親からも言われていたのを覚えています。実は私も大作が創価
学会の会長になったことを全然不思議には思わないんです。外
見では分からいでしょうが、あれほど自分に厳しい人間はいな
い、子供時代からそうでした」

 池田元会長

 「幼少期の自分を振り返ったら、まるっきり平凡な子供だっ
たと思う。でも自分で言うのもなんですが親孝行で、まじめで
母親からは一番、可愛がられました。とにかく兄弟が多かった、
でも私を特別な目で見てくれました。関東大震災直後の事業の
失敗で生活は苦しかった、でも母親は食べ物は子供に十分に与
えてくれました。でも私は腺病質だった、小学校時代、先生や
同級生に大きな迷惑をかけたと、今でも申し訳なく思います。
休んだ日が多かった、気も弱く、成績も中くらいで全く平凡で
した」

 池田元会長の通っていた大森の小学校に三年時に転校した
という同級生の回想

 「大森の小学校で、郷土色が強いな学校だな、と思いました。
私は深川の小学校から転校した関係で、まず田舎の小学校だな、
と感じました。池田はいつも成績は良かったです。まずはトッ
プグループでした。点取り虫みたいなのが二人いて、そういう
連中よりは下でしたが、無理に点を取るタイプじゃなかった。
人づきあいが良かった。誰とでも友達になれる性格でした。や
や体は弱かった気がします、でもそれを周囲に見せないよう、
努力していたようです。後で聞いた話ですが、彼は新聞配達も
やっていたそうです。そんな苦労していることを私は知りませ
んでした。ツギのあてた洋服を着ていました。苦労しているこ
とは一切、顔にも口にも出さなかった」

 兄の回想

 「大作は早朝から新聞配達、実はその前に午前二時からノリ
張り、学校から帰ると夕方の新聞配達、それが終わると私と
ノリのゴミを取る作業、箸を使いますが非常に厄介な仕事です。
大作は高等小学校を出て私が先に努めていた新潟鐵工所で働く
ようになりました。その頃でもノリの手伝いはやってました。
今思えば、あの頃の生活は筆舌に尽くせない苦しいものでした。
それであれほど明るく生きていく、最近なって弟の著作が出回
っていますが、本人は苦労話はしませんね、幼いころから非凡
だった、よくやりぬいた、と思います」

 央氏がこの話を池田氏にしたら「兄はノリの手伝いをあまり
やらなかったから、気にしてるのかな」と全く話の乗っては来
なかったという。

 小学校を出た池田大作氏は羽田高等小学校に、深川から転校
下という前述の同級生について池田大作氏は「資産家の子供で
恵まれてはいました。今は仕事もうまくいっているとのこと、
陰ながら私も喜んでいます」

 池田家の家系は大森で、曾祖父、祖父、父の三代、ノリの
養殖をしていたことは明確にわかっている。曾祖父はいわゆる
「浅草海苔」の元祖であったとも言われる人である。それ以前
は千葉で半農半漁でノリ養殖を行っていたという。元禄時代に
播磨から千葉に移ってきた家系というが、明確ではない。

 父親がリューマチ、関東大震災で大森沖の地形変化で養殖の
困難化、でノリ事業も困難に、さらに働き盛りの男手を次々と
兵隊に取られたことなど、災難が襲来した。長兄の喜一は戦死
、後の兄弟は一家をなしているが、会長職になった池田大作氏、
身内には非常に厳しかった

 「厳しいなんてもんじゃない、私は小さな事業をやっている
が弟から何一つ面倒をもらったことはない。でもそれは正しい
姿勢じゃないでしょうか、親孝行は相変わらずやってるようで
すが、公私混同は絶対にやらない、ですね」

 池田元会長が創価学会に入信したのは昭和22年、1947年、だ
が父母、家族、親戚、みな大反対だった。一家で最初に入信は
回想の主の兄で昭和32年、1957年であるという。

  兄の回想

 「大作が戸田先生にあって入信、正直、参りました。なにし
ろ六畳に二人で暮らしてまして、そこで毎朝、深夜、声を出さ
れますから、こっちは寝ているのに、頭の上で一時間以上も、
『うるさい』といってもやめない、父、兄も『頼むからやめて
来れ』というが、やめない『仏法の実態を分かりたいから、し
ばらく、やらせてくれ』やがて別居したんですが家族は手紙で
、やめるように云ったんですが『十年後、十五年後を見てくれ』
といってやめない、ところが昭和29年、大作が学会の参謀室長
、青年部主席職になって、彼に会ったら、家族の誰もが威圧感
を感じるほど、威風堂々としてました。父のお通夜に来て、焼
香者への態度があまりに堂々としているので驚きました。応対
も立派だし、私も『この宗教は確かにどこか違うな』と感じま
した、それで昭和32年6月、私も家族では先陣を切って入信し
ました」

 池田大作氏は央忠邦氏にこう語ったという

 「貧というものは、それなりのリズムがある。貧から解放さ
れるためには、それをひっくりかえす必要がある。自分の青年
時代、心は豊かだったが、生活は苦しかった。昭和25年ころ、
戸田先生の事業の失敗で給料は半分も出なくなった、この苦境
の時代でも私は師匠を絶対に尊敬したし、誇りにも思っていた。
私は自分にこう言い聞かせていた『私の人生はひとつの劇であ
る。ドラマにとって逆境は価値になる』と、だから貧が卑しい
ものでもないし、入信したら家から勘当された人も多かった、
だが『苦難にまさる教育なし』をモットーに生き抜いた」

 超大組織の指導者として峻烈と温かさの併立、また策略も
極めたが、あの時代、戦後のドサクサ、混乱に秘められた
日本の沸々たるエネルギーをまとめ上げることが出来た人物
は、やはり池田大作氏をおいて他にあるまい。

 央忠邦(なかば・ただくに)氏も執筆は容易でなく、中正の
立場の維持に苦労されたようだ。内部の人間ではないが、放送
記者で池田会長に接する立場にあった、池田元会長の真髄はや
はり幼年時代から少年時代、青年時代の苦難の克服にあった、
という思いがする。


 池田大作氏と央忠邦氏

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この記事へのコメント

2023年11月27日 23:53
デイリー新潮WEBサイトで下記の記事が公開中

【池田大作の履歴書】かつては高利貸しの営業部長だった…神格化のために行われた大袈裟な演出とは