正宗白鳥の死の前のキリスト教回帰を考える、植村環さんの証言
正宗白鳥を考える糸口はその死を顧みることである。
正宗白鳥、1879~1962,83歳で死去。昭和37年、1962年の
10月28日、東京飯田橋の日本医大附属第一病院でこの世を去
った。明治、大正、昭和の三代に渡っての文学者人生だった。
その立ち位置は独自である。小説にこれと云ってヒット作も
著名な作品はない。死因は膵臓がんだった。
付き添い看護婦の話では白鳥は足に自身があったようで、毎
朝五時には起きて病院の回りを散歩していたという。その際の
付き添いは断っていた。その頃、以前からかわいがっていた作
家の深沢七郎さん、中央公論社社長夫人刺殺事件もあって当時、
北海道に居住していたが、白鳥の病室に駆けつけた。夫人が深
沢に「あなたが来るのはまだ早い」と言った。以前から白鳥は
深沢七郎に「葬式は深沢くんに頼む」と話していたという。
深沢の話では「正宗先生は家庭はもちろん、病院でも自分の
事は基本的に自分で始末していました。見舞いに行って何彼し
てあげようと云いましても、何もさせませんでした。十日ごと
の病院への支払いもカバンからお金を出して奥さんに支払いに
行かせてました」
芸術院会員、文化勲章受賞の作家、といって日本人の多くは
その作品を読んだことはなかった、と思って間違いない。
深沢の話
「先生は死の前日、病院の支払いをまだしていないことに気づ
き、奥さんが『もう深沢さんに頼んでいってもらいました』と云
っても、先生は私を呼べといってきかない。私は行くと先生は眼
をつぶっていた。『入院料は私が払ってきました、もう借金はあ
リマ千』と云うと、先生は深くうなずいておられました」
9月5日、手術後から二週間は元気な状態が続いた。好きな散歩
も病院内なら出来た。だがその後、病状は悪化、だが自分のこと
は自分での気力は萎えていなかった。死の二週間ほど前に、洗濯
で下に降りていた奥さんを呼ぼうと白鳥はベッドから降りて、廊
下に出たところで転倒、顔面を打撲、出血した白鳥はベッドに戻
り、壁に顔を向けた、「「人にみっともない顔は見せられない」と。
最期の日まで白鳥は51年間、連れ添った夫人を按じていた。夫
人は喘息で苦しんでいた。戦中戦後の食料不足の時代、白鳥は
リュックを担いで東京まででかけ、食糧をいっぱいリュックに仕
入れて軽井沢まで帰った。実子はなく、甥の正宗有三を養子にし
ていたが、臨終の前の日は「お前一人を置いていくのは気がかり
だ」と夫人のことだけが言葉に出た。
白鳥の希望により、葬儀委員長は文芸家協会会長の丹羽文雄が
引き受けた。葬儀は10月30日、新宿の日本キリスト教柏木教会
で執り行われた。文化勲章受章者、芸術院会員の死に際しての
慣行となっていた天皇からの祭祀料下賜、叙位叙勲、文部大臣の
弔事は全て辞退した。香典も一切お断り、花輪に花札一つない
簡素なものだった。
青年時代、白鳥は植村正久牧師によって洗礼を受け、最期は
植村正久師の娘の環さんに祈りを捧げられてこの世を去った。
植村環さん
「病院へはかなり、10回以上はお見舞いに参りました。その
ときは賛美歌を歌ったり、お話、お祈りをしました。亡くなら
える一週間ほど前、お祈りの時、私の手を握りしめ、
『国木田独歩は死ぬ少し前に、あなたのお父さんを訪ねたとき、
お祈りをしなさいと言われ、ぼくは祈れないと泣いたそうです」
といって、私の手を握りしめ、『アーメン』と言われました。
私は『先生、いまさら懐疑でもないでしょう』と言って、イエス
がいった言葉『見ずして信じる者は幸いなり』、ヘブル書の『そ
れは信仰の望むところを確信し、見ぬものをまこととするなり』
とお話すると、先生は
『私は単純になった。信じます、従います』と安心しきった顔
をしておっしゃいました」
植村環さんによれば、白鳥は最期に間違いなく「アーメン」と
云ったという。
最晩年の正宗白鳥
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