白崎秀雄『北大路魯山人』ちくま文庫、魯山人の最も本格的で同時に批判的な評伝

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 北大路魯山人、とは京都出身の料理、篆刻、書、陶器な
どの広い分野で、いわば文人的な大人物的な想像をするもの
だ。最近、というかKindleでいたって安くその全集が購入でき
るが、料理関係の記述が多いようだ。ともかく、いたって広い
領域での才能発揮、また高級料亭、星岡茶寮の創始者としても
知られている。魯山人は1959年、昭和34年に亡くなったが、そ
の傲慢不遜を極める態度は一貫しており、私生活での醜態も人
々のヒンシュクを買ったのは否めない。その必ずしも好ましく
ないイメージの中で伝説化した人物だ。伝説化されるというこ
とは確かに業績の偉大さを暗示はするにせよ、功罪相半ばする
ということであある。

 著者、白崎秀雄氏は魯山人の生前からその言動、作品にかな
り激しい反発を感じ続けてきたという。だがその多彩な芸術を
見て、知って、反発は消えずとも惹きつけられていった。この
異様な、怪異なる人物の全貌を把握したいという探究心を覚え
てきたという。著者は美術研究家でもあり、魯山人を自分なり
に解釈し、捉えてみたいということである。

 何よりも魯山人を世に広めたのは白崎秀雄氏なのである。そ
れがこの本であ。

 魯山人はその生い立ちからして、いたってただならぬものが
あった。本名は房次郎。明治16年、1883年3月に京都に生まれ
た。生まれると即座に他家に出され、他人の間を転々とした。
21歳で初めて生母に出会うが、生母のトメは彼を冷酷に遇し、
追い返してしまう。

 上賀茂の社屋の出の父親の清操は魯山人の生まれる三ヶ月ほ
ど前にあるもつれから割腹自殺を遂げる。妻の不貞に憤り、と
も言われるが、真相はよくわからない。だから、あるいは魯山
人が不倫の結果の子供では、とも言われ、これが大きな陰を生
むことになったという。

 魯山人は小学校にも満足に行かなかったが、早くから書の才
能は現し、これで身を立てようと上京、岡本一平の父親の河亭
の内弟子となった。河亭は食事にやたら厳格であり、その影響
で料理についての知識、技術も修得し、その後、安見タミと結
婚する。

 最初の妻との間に二子をもうけるが、妻は離縁され、魯山人
は都合、五人の女性と次々に結婚し、いずれのケースも妻に
散々な苦労を強いて、持参金を我がものとして追い出すなど、
離縁を繰り返した。子どもたちも全て魯山人の元を離れていっ
た。このような行動は到底、許せるものではないだろう。

 そのような家庭では非道な行いに終始しながら魯山人は、書
、篆刻などをなりわいとし、その才能に惚れ込んだ実業家や各
界の有力者たちに巧みに取り入り、彼らの持つ鑑賞眼や多くの
技能を我がものとし、徐々に名声を高め、星岡茶寮を経営する
に至る。しかし、それもあまりに傍若無人なワンマンぶりで周
囲からは嫌われ、挙げ句に追放されてしまう。それからは陶芸
に専念、戦時中は漆器にも手を伸ばすが、贅沢で乱脈な生活は
借金まみれの状態をもたらした。

 鑑賞眼には自信以上に傲慢不遜で、ピカソは単なる山師と見
下した。會津八一とは犬猿の仲で、柳宗悦の民芸美学も罵倒し
ているという。なぜそこまでだが、つまるところ魯山人に潜む
劣等感、独自の美意識もあったとされる。重要無形文化財の指
定の要請も拒否し、死の床でも娘を会わそうと人が連れてきて
も、「俺に子供はないない」と会おうともしなかった。

 白崎秀雄氏は美術研究家として、その知識、経験からこの
奇怪な天才を克明に調べ、魯山人を批判的に述べ、人物像を
造形している。出生にまつわる探求は他の追随を許さない。
魯山人の人間性のあまりの欠陥を冷徹にさばいて批判する。
初版は文藝春秋から1971年に刊行された。

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