色川武大『狂人日記』1988、幻覚、幻聴の描写だけでは文学にならないのでは


 色川武大、1929~1989,だから60歳で死ぬ前年の発表作で
ある。色川武大という名前はあの歴史学者の色川大吉を連想さ
せる。阿佐田哲也のほうに統一していたらとは思う。

 でこの人、の作品だが、おしなべて云うなら、何か内部に
非常に悶々とした作品化にどうも不適なものを持っているよ
うであり、何ともスッキリしない。だれもあまり聴きたくな
いようなドロドロした言葉の流れを感じさせる。作家を目指す
のだが、また作家になるのも腹ふくる思い、という矛盾がある
ようだ。
 
 だが遂に死の前年、59歳と若いようだが、死の前年だ。タイ
トルは『狂人日記』、行き着いた世界がこれなのか、魯迅の「
狂人日記」というあまりに著名な作品もあるが、・・・・
つまるところ精神病院、いうところの「気狂い病院」に主人公
=自分が、入院するところから始まる。そこからの文章は幻聴
に襲われているような、というより幻聴の表現が続く、でおよ
そ小説らしい話も展開もない。あの映画「狂った1頁」だって
横光利一か川端康成の原作というのか、筋立てはある。

 「身体のすぐ横に、猿が来ている。じっと見つめると、横す
べりして壁の中に入ってしまう。しかし身体の横にまだいる気
配でもあるわけで、睨むと、やっぱり横すべりしてしまう」

 「音の気配は頭を叩くような音だし、リズムは全速力の汽車
のピストンのように速い。気分は叫ぶ、きとこれで気が狂って
しまうのだ。幼時から何十回そうおもったことだろう」

  という具合の幻覚、幻聴の描写が続く、この時期、このよ
うな作品の存在意義が果たしてあり得ただろうか、とは感じる。
ただ幻覚、幻聴幻覚が並べ立てられ、、まあそんな小説もそれま
でには幾つかあったが、この作品は特に無意味な空回りに終始し
ているイメージだ。そんな無意味な光景を生き生きと!描くとい
うのは作者の自己体験があったからだろう。

 要は、一人の精神病患者の心のうちが、実在感を持って描かれ
ている、だけなのだろう。

 ただこれは精神病と云うより、過度の飲酒の習慣による結果と
もとれる。

 主人公=自分、が「自分の頭脳が壊れている」ということだっ
たが、それは些か疑問がある。実は自分の頭脳が壊れているとい
うイメージにこだわっている、というべきだ。

 ただ文学としての妙味、という点で過去の「狂人日記」、それ
的な作品と比べ、魅力に乏しい、と言わざるを得ない。

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