篠竹幹夫監督が泣いている、日大アメフト廃部、栄光はなぜ途絶えた?
日大アメフトといえば1959年に監督就任、定年で2003年
に退職で監督もやめられた。日大文理学部教授が本職だった
にせよ、東の日大、西の関学と称される、日大アメフトの
長きにわたる黄金時代を築かれた業績はあまりに偉大だ。
篠竹幹夫監督である。2006年に73歳で亡くなられた。
その指導は厳しいの一語だった。生涯独身を貫き、寮で
学生と共同生活、日常の私生活も厳しい目を注いだ、鉄拳
は日常茶飯事。篠竹幹夫監督が退任され、アメフト部の寮
から去ったときから、日大アメフトの衰退、転落が始まっ
た。もはや寮で学生たちと共同生活なする監督はいない、
まず独身はいないから自分の家庭に戻る。超厳しい篠竹監
督がいなくなった寮は残念ながら解放感から、にしても非
行行為が広がり、慣習化した。もちろん、寮で監督が共同
生活など普通はないのだから、ひとえに学生の規範意識の
欠落なのだが、言い換えればいかに篠竹監督が厳しかった
、かである。合宿では選手たちに徹底した規律を命じた。
禁酒禁煙の徹底は当然、夜、盛り場に繰り出すなど厳禁だ
った。門限は絶対だった。だが篠竹監督が去って、全ては
潰えた。
試合でも選手を見る目は厳しい、勝利でも試合後、ある
選手、Aを叱咤。選手たちに「Aはいないか!」呼びつけて
「お前、あのときなぜ敵が大勢いる方に走ったんだ、
いないほうに走るのが当然だろ、コンマ一点でも取れよ!」
試合中はいつも帽子をかぶって試合を厳しく見つめた。
リードされたら「こりゃ、ダメだね」、テレビ中継が今も
あるのかどうか、東西の甲子園ボウルでの篠竹監督の姿、そ
れを見るのは大きな楽しみでもあった。
しかしまさしく偶像でもあった、その偶像に恥じぬ生活と
威厳、それを保つのにすべてを注いだ。
篠竹監督は犯則は徹底して嫌った、正々堂々、フェアプレ
ーを選手に厳命した、だがその後の内田監督ときたら、であ
る。日大アメフト部は後継監督に恵まれなかった。
その成し遂げた17回の学生王座、日大ショットガン戦法を
編み出した、常に「アメフトは窮極の球技だ」とその信念を
語った。「自分を一番愛してくれるのは選手たちだから、結
婚などしない」・・・・・・こんな監督はもう出ないだろう。
日大アメフト部の不祥事続き、あの篠竹監督の万分の一の
厳しさと情熱があれば、栄光の歴史に幕を閉じる結果などに
ならなかった、・・・・・・
選手の自覚の欠落はまず問題だが、若気のいたり、はある。
やはり指導者の責任が大きい、悪質タックルも監督の影響だ。
日大フェニックスは監督に人材を得られなかった。
だろうがいっときの世間への気遣いでアメフト部を廃止、こ
れで批判をかわせられる?とんでもない、真にアメフト部を刷
新し、再建することこそ本当の世間への対応である、正しい
選択である。廃部はあまりに安易である。といより、あっては
ならない。篠竹監督の慟哭が聞こえる。
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