「正宗白鳥のキリスト教、棄教問題」山本健吉と後藤亮の間の論争

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 正直、文学好きでもほぼ関心などない、それ自体も別に
面白くもない意味もなさそうな「正宗白鳥が死の間際、キリ
スト教に戻った」問題、若き日に白鳥はキリスト教の洗礼を
受けている。それを死の前、膵癌で入院中、訪れた植村環、
植村正久の娘の前で横になった姿勢で「アーメン」といった、
と植村環は証言した、・・・・・あの白鳥がキリスト教戻っ
た?

 ここで若き日の正宗白鳥のキリスト教への関わりを考える。
白鳥は上京の一つの目的がキリスト教について勉強したい、
ということだった。日曜日にはあちこちの教会を訪れてみた。
多くの牧師の説教を聞いたが、結果は多少は訥弁でも内容が
魅力のある植村正久の市ヶ谷講義所に通い始めた。といって
一気に飛び込むなどという気持ちはなかった。ところが、幼
少時代から病弱だった白鳥は、上京後、体を鍛えようと無理
を重ね、逆効果となって胸を病んでしまう、数ヶ月も深刻な
病状で生死の境をさまよった、帰省してもほぼ休みを静養に
努めた。・・・・・それが白鳥をキリスト教に向けたのかど
うか、書物では断定的に述べられているが、・・・・・だが
いっそう植村正久のこうぎを聞くようになった。やはり病気
は宗教の導入になるのかどうか、そこで自ら進んで植村誠久
の洗礼を受けたのがその翌年、1897年、明治30年であった。

 だが結局、白鳥はキリスト教を信じるに至らなかった。
やがて教会から足も遠のいてキリスト教自体を忘れてしまっ
た、のだが。

 その後、生涯の最後、1962年、昭和37年11月に日本医大病
院で膵がんで入院中、死ぬ少し前、植村正久の娘、環によって
キリスト教に回帰、「アーメン」と云ったと環は証言したのだ
が。

 さて、山本健吉、後藤亮の論争の始まりは1972年4月号の雑
誌『新潮』において、後藤亮が正宗白鳥をモデルにした小説を
発表し、山本健吉の白鳥棄教説についてふれたのだが、その
連「ふれかた」が山本健吉の怒りを買った。
 
 山本健吉は雑誌「文學界」5月号に「白鳥の秘密」と題する
エッッセーを書いて、後藤亮を「この表六玉」と罵倒した。
後藤が山本健吉の説を幾度も歪曲したことへの怒りだったよう
だ。

そこで後藤亮が「文學界」7月号に、「山本健吉氏への反論」
を寄稿、これで論争らしくなった。山本説は「白鳥は生涯、キ
リスト教を棄てたことはない」というのだ。終始一貫して白鳥
はキリスト教徒だった。、というのだ。これに対し、後藤は「
白鳥は一度、キリスト教を棄て、最晩年に復帰した」という。

 白鳥の生活ぶりにキリスト教らしい部分は見当たらない。最
期に近くなって、植村環牧師が病院で白鳥のために祈りを捧げ
たとき、白鳥が「アーメン」と言った、という事実は二人とも
否定しない。この事実を前提とした解釈の違いが、二人の論争
の出発点ともなった。

 白鳥が没後、「文芸」が正宗未亡人、つね未亡人の証言を掲
載、そこで「植村環なんか、善良でもちゃらんぽらんで、その
云ったことは信用できない」と書いたのである。これを未亡人
の希望で削除したという。だから白鳥が「アーメン」といった
かどうか、確定できないということだろうか。

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