永山一夫、北朝鮮に帰還の前の「日本を去るの記」、差別に泣かされ続けた生活

  
 手記 「日本を去るの記』永山一夫(権 秉純、コン・ヒョ
ンスン)


 当たらない天気予報が当たらぬままに晴れた日、延び延び
になっていた次男坊の三回目の運動会が行われる。この国で
の最後の運動会である。何はともあれ退院の許可を得学校に
急ぐ、気が遠くなるほど、青く空が抜けている。工業地帯の
汚れた空気も、鼻をつく異臭も、訪れた秋の風が遠く東京湾
のかなたへ運び去ったようである。

 遅れてついた運動会、今や競技はたけなわ、ちょうど母と
子の二人三脚、見物人の笑い声と声援が飛び交い、そこはか
とない和やかで健康的な雰囲気を醸し出す。

 ふと目がくらくらする。姉の作った弁当の重みを感じる。
気を取り直して一人ぽつねんと競技に見入っている三年の
次男坊に近寄る。

 声をかける、子が振り返る。一瞬、その顔に喜色がよみが
える。目をそらす。競技を終えた母子が楽しそうにふざけあ
いながら、帰ってくる。大勢の目が父子に注がれる。三年坊
主、その幼く愛くるしい下唇を突き出し、べそをかくような
顔をする。テレビに顔を出す父を持ち、母がいない子は、母
のいる子らに取り囲まれることに云いしれぬ哀しみを味わっ
ている。

 父と子は苦笑を投げ合う、小さな手の動きで父のその場か
らの退去を促す三年坊主の両目に赤みがさす。毎年、同じこ
との繰り返しだ。私は誰もいない屋上に歩を運ぶ、急な階段
は病み上がりの中年男にはきついものがある。

 急に嘔吐感に襲われる。その場にうずくまる。

 黄色い歓声が耳につんざく。赤みをさした子の目が脳裏に
蘇る。あれは泣き出す前のあの子のいつもの目の色だ。

 〈昔の運動会の思い出〉

 また一段と高く歓声が上がる。御前の競技が終わったよう
だ。次男坊が駆け上がってくる。長男も交えた三人だけの昼
食が今年もまた屋上の冷たいコンクリートの床の上で始まる。

 遠い昔、運動場の片隅で、母を囲んで貧しい弁当を食べた
思い出がよみがえる。母の手料理に舌鼓をうちながら、キム
チの匂いを手で追い払う、私の運動会の昼食はいつもながら、
歯のいらぬ飲み込むだけの短い時間に行われる。弁当箱を持
参の一升瓶も水で洗い、私にうがいをさせる母の姿に、私は
云いしれぬ疎ま示唆を感じる。

 なぜこの人は、いつも同じチョゴリしか着ないのか。今日
は運動会。ほかの母親たちはそれなりに着飾っている、うち
の母だけはいつも同じチョゴリにチマ、それが洗いざらしの
古びた白だけに、私は日焼けした母のおどおどした顔の表情
に、やりきれない憤りを感じ、悪態をつく。

 「早く家に帰れ〉と習い始めた日本語で怒鳴ると、母はか
すかに笑みを浮かべ、もと来た垣根のくずれに身を捩りなが
ら消える。若い母に母子競争をさせたら賞品を独り占めに出
来るはずだ。私は美しく見えるその後姿が、すがりつきたい
優しさが、ただうとましく目に映じるだけである。

 誰も声援してくれないカケッコ、を一心に走る。無心に走
る。

 さっきの次男坊のカケッコが目に浮かぶ、一心に走って、
一等だ。バンザイしてゴール、屋上の父に合図をする。父
が走る、私はいつもビリだ。

 〈金日成将軍の歌、を聞きながら〉

 いつまどろんだのか、やはり秋のつるべ落としだ。ひとき
あ歓声が上がる。

 「マンセー、マンセー」

 「金日成将軍の歌」が聞こえる。

 去年と違うなにかが襲ってくる。何の感情だろうか。
それはただ、数日後に控えた帰国の船のエンジン音に似てい
るかのようだ。

 31年間が、ただこの音だけのために忘れ去らねばならない
のか。31年間が、なぜ、この一瞬のために意味もなく潰えさ
らねばならないのか。

 それほど、この「マンセー」が私を変える力を持つのか、
それほど、私を作り変える力が「金日成将軍の歌」に託され
ていたのか。

 私にはわからない、まだ、わからない。わかろうとした意識
の年月であったのに、数日後の離日が、私にはただ遠くの別の
世界の歌声でしかない。

 「金日成将軍の歌」が聞こえる。

 秋の日はそろそろ終わりである。あと幾ばくもない残された
日に、秋は短すぎる。

 また「金日成将軍も歌」が聞こえる。この地に31年間を費や
した男の、その決別をいとも簡単に忘れさせる歌声・・・

 三年坊主の運動会は終わったようだ。楽しげに散る群れの中
で、熱っぽい子供の手を両手に感じて、私はしばし、茫然と、
見も知らない祖国の空を思い浮かべる。

 私はいまや思う。いまや、悟る。私の人生に、実は私が思っ
ていた、、悩んでいた、すべてのものが、この運動会、校舎の
屋上でしか参加できなかった男の終末でしかなかった気がする。

 私は子どものためと思いながら、実は子にひきずられるよう
に、自分の祖国へ、ようやく帰れる祖国へ、子に導かれるよう
に帰っていくのだ。

     〈以上、1971年10月18日、記す〉

 1971年10月22日、北朝鮮への最後の帰還船「万景峰」号が
永山一夫らを乗せて新潟港を出港。だが到着した清津港で
早くも絶望に襲われたはずだ。永山一夫の消息は一切不明で
ある。強制収容所送り、死亡の可能性も高いと言わざるを得
ない。

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 ブーフーウーのオオカミさんの声優、といって俳優であり、
おびただしい数の映画、テレビ番組に出演している。しかし
、まだ強制収容所の実態もあまり一般に知られておらず、また
帰還日本人狩りという恐ろしい現実も知られていなかったよう
だ。総連の地上天国宣伝はなお真実味を帯びて咆哮されていた
時代だろうか、北に帰還、と云って在日の98%は現在の韓国の
地の出身である、関西から九州出身の人が北海道東北に「帰還
」するようなもので、郷里ではなく、要は移住であった。

 永山一夫は実在の日本人から戸籍を借りただけであり、本名
は権 秉純、コンヨンスン、子供の頃の日本名は大山昇。「七人
の刑事」にも出演、映画は例えば「ゼロ戦黒雲一家」、さらに
東映のギャング、ヤクザ映画にも数多く出演した。

 永山一夫こと権 秉純、コンヒョンスンさんは生まれたのは現
在の韓国慶尚南道南道居昌郡出身、父親は権邦得、母はナヨン
ウセ、姉が二人、妹二人、1940年、永山一夫さんが5歳の時、
家族で日本に、下関で下船、山梨県の身延へ、記者の中で父親
が駅弁を買ってくれた。実はそのとき、初めて肉を食べたとい
う。父親は朝鮮で中学を出ていた。貧しかったが、これは日本で
は大卒に匹敵の学歴だった、という。

 だがそれで逆に日本の支配に利用されてしまった。最初は巡
査、さらに刑事、遂には憲兵になったという。その仕事は村民
を捕まえることだった。徹底した皇民化教育のもと、「日本語
を使わない朝鮮人」を密告する、そんな仕事に耐えられず、全
てを棄てて日本にやってきた。

 そういう事情で日本に来ても決して家庭内では決して日本語
を使わせなかった。日本での最初の住居は飯場だった。父は労
務者、母は炊事婦、だった。

 永山一夫さんは朝鮮時代、創氏改名で朝鮮名を日本名に変え
させられた。「大山昇」という日本流の名前である。その大山
くんは小学校で「自分は朝鮮人だ」と発覚したら、その瞬間か
らよってたかった暴行をを受けた。卒業したのは川崎市桜本小
学校だが、小学校を七回も転校したという。いつも自衛用に棒
を持ち歩いていた。ときには30人近くを相手に喧嘩したことも
あった。泣いて帰ると決まって父親は住居を移した。生の中の
掘っ立て小屋に住んでいたこともある。

 少年時代、仲が良かった人は誰ひとりおらず、懐かしい思い
出もない。皆が憎しみの対象となった。学校の教師も嫌いだっ
た。いたずらをして殴られる時日本人生徒は竹刀、永山さんだ
けは木刀で殴られたという。専用の木刀が用意されていた。ま
た、よく「くさい」と言われた。それがいやで、にんにくを食
べなくなった。匂いもないのに臭いと言われた。廊下と先生と
すれ違っても、先生は立ち止まって匂いを嗅ぐ振りをする。

 北朝鮮になぜ帰還した、という。まだ北の地獄ぶりが十分に
伝えられていなかった、にしても最大に要因は日本人の熾烈な
差別、また韓国の棄民政策で帰りたくても帰れない、金日成の
思想は限りない救いに思えた、・・・・・・のもやむを得ない
のである。

 俳優になってからの永山さん、権 秉純さんは「七人の刑事」
に朝鮮役で出演した、スタッフは永山さんが朝鮮籍と知らなか
った、その中で朝鮮人役として「臭いといわれるから、体中に
香水を塗ったんですよ」というセリフ、部長刑事、芦田伸介
に告白する、実は高校時代の永山さんにも同じ経験があった。
芦田さんは「お前の演技で泣けて仕方がなかった」とあとで云っ
た。「芦田さんは僕を朝鮮人としらなかったと思う」と述懐する。

 北朝鮮帰還前の永山一夫(権 秉純)さん、中央が次男、左が
長男

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 〈朝鮮学校〉

 永山さんは中学から朝鮮学校に通った。新しく出来た東京都
北区十条の朝鮮人中学校に入学、その一期生だった。旧日本軍
兵舎の改造校舎、クラウンドは生徒たちが土を運んでならして
造った。だが何度も廃校の憂き目にあった。

 高校も朝鮮学校、この六年間こそ、永山さんにとって生き返っ
たような日々であった。無我夢中で生活したという。当時の同級
生の話では

 「米軍放出の軍服などカッコよく着こなして、ケンカも強かっ
た。エネルギッシュだった」

 詩や作文も上手かった。だが朝鮮戦争の前年、1949年に団体
等規制令で在日朝鮮人連盟に解散命令が出て、朝鮮人学校に閉鎖
命令が出た。生徒たちは夜中に塀を乗り越えて校内に、それを
排除しようという警官隊としばしば流血の乱闘が繰り返された。
まだ中学生の永山さんは警官隊に棍棒で殴られるたびに、「異国
」であることを痛感させられたという。高校の卒業式には五千人
もの警官隊が襲撃してきた。最高学年だった永山さんらは警官隊
への盾となった下級生を逃がすのに必死となった。

 中高の同級生の話

 「彼は積極的で、つねに先頭で行動した。朝鮮人学校を守り続
けた6年間、彼の青春の生きたあかしでしょうね。その後、NHK
の『ブーフーウー』のオオカミさんの声優、警官隊に追われ、血
だらけで逃げ回っていた彼と知って驚きました」

 〈演劇との出会い〉

 永山さんが演劇に興味をいだいたのは高校三年のとき、演劇部
でどうしても乞食のなり手がいない。そこでお鉢が回ってドーラ
ンで塗りたくられ、むしろを担いだ姿からはだれも永山さんと分
からない。彼は舞台でそれが無性に嬉しかったという。見事に変
身出来る喜び、それが病みつきとなった、という。

 朝鮮学校は方針で何か一芸を身に着けさせる、というものが
あった。手に職もなく辛酸をなめた、あの貧窮の再現がないよ
うにということだった。永山さんは父親の「祖国のために」と
いう考えで技術者を目指し、千葉工大の電気科に進んだが、演
劇への情熱は止みがたく、退学し、秋田雨雀の舞台芸術学院に
入学したのである。

 〈日本人から戸籍を借りる〉

 朝鮮芸術劇場が結成され、入団。朝鮮語で有名な「春香伝」
などを演じる同胞を見て民族意識を掻き立てられた。北海道
以外を全国を四年間で巡業、この頃、国家意識も目覚め、帰還
を決意したという。劇団が演舞主体に変化、居場所をなくした
と思って退団、仕事もなく、日雇い労務者をやった。そのうち
NHKのテレビ向け俳優養成所が出来るという広告を見て入ろう
と思ったが朝鮮籍では無理となっていた。願書締め切リの前日、
蒲田止まりの終電でおり、自宅のある川崎まで歩こうとしたが、
駅前の屋台にふらりと立ち寄った。80円がポケットにあった。
梅焼酎なら二杯飲めると思って。

 この屋台が人生の分かれ道となった、その屋台で飲んでいた
「青白いか顔の同年齢くらいの男に話しかけられた」、いっし
ょに飲んでいて「朝鮮籍で入れない」というと「おれの名前を
貸してやろうか」と言われた。つそかまことか、翌日、その男
の家を訪ね、受験に必要な「戸籍謄本」、「高校卒業証明書」
などが揃っていた。名前は永山一夫、年齢は二歳上、彼はその
書類を持ってNHKに急行した。2000人受験でわずか30人しか受
からない、だがパスした。

 蒲田駅前の屋台で知り合い、「永山一夫」の戸籍を貸してく
れた日本人の永山一夫さん

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