エディ・タウンゼント、ボクシングの名トレーナーの前半の人生を探る。父親は早稲田大学卒のイギリス人の日英ハーフ

最初、エディ・タウンゼントという名前を聞いたのは、もう
1967年、藤猛の世界タイトル奪取だったわけで、そのコメント
は大きな誤解も生んだのは否めない。「岡山のおばちゃん」は
同じハワイ居住のおばちゃんが、偶然、岡山の親族を訪問に来
ていた、ということ、「勝ってもかぶってもおをしめよ」と
、ただし国籍はアメリカ、ジムは力道山が設立のリキジムだっ
たが、一回防衛は出来たがその後は冴えなかったこの当時のエ
ディ・タウンゼントさんは若かった!
で、エディ・タウンゼントというから完全な白人と思ってし
まう、容貌も全く日本人ばなれしている。
エディさんは大正三年、1914年、イギリス人弁護士の父親と
日本人の母親との間に生まれたという。父親はイギリス人弁護
士とは云え、日本の早稲田大学卒業!という日本との深い縁な
のだ。
実は26歳のプロボクサー、エディさんが初の敗北、1941年
12月、真珠湾攻撃の前夜だったという。この試合がエディさん
、ボクサーとしての最後の試合となった。戦績は12勝1敗1分、
エディがリングを降りた理由は戦争である。戦争が始まり、エ
ディが生まれ育ったホノルルは瞬時に戦乱に巻き込まれたわけ
だ。もうボクシングどころではなくなった。8年間のエディの
ボクサー生活も終わりを告げた。
戦争は終わった、エディは再びボクシングの世界に戻ったが
今度はジム経営者として、である。三年でフリーのトレーナー、
兼マネージャーになった。ハワイである。ところが1951年に、
日本から白井義男がハワイに来た。白井は当時の世界王座にあ
ったダド・マリノとノンタイトル、TKOで勝利、この試合を見
てエディさんは「日本人ボクサーも捨てたものではない」と思
い、日本に目を向けるきっかけとなった、という。
1956年、今度は金子繁治が来た。エディの秘蔵子、エベル・
ドンネルと試合、ドンネルが勝利した。これがきかっけでエディ
さんはドンエルを連れ、日本に向かった。母の国、父の大学の
国である。
日本に八ヶ月滞在、ドンネルは三戦全勝、日本の中量級の強敵
を寄せ付けなかった。軽量級なら強いが、中量級以上となると、
日本は弱い、これがエディさんの日本ボクシングへの印象だった
という。
ハワイに戻って二年後、エディさんは父親と同じく、日本人女
性と結婚、1932年生まれ、元ムーラン・ルージュの踊り子だった
森ゆり子という女性だった。それはフリーのショーダンサーとな
った彼女がが数人の仲間とハワイに公演に来た。そこでエディさん
と森さんを引き合わせたのがサム・一の瀬氏だったという。エディ
さんは一目惚れ、即座に結婚した。昭和33年、1958年のことである。
よく昭和34年、1959年、力道山がハワイに来た。ボクシング進出
を力道山は目論んでいた。力道山はエディに今度、創設するジムの
トレーナーとしてやってほしいと頼んできた。日本は重量級はから
っきし弱い、弱いから主に中量級以上のクラスを指導してほしい、
との考えだった。力道山は日本でプロボクシング、ヘビー級選手権
をいつかやりたい、という夢を持っていたという。
ただエディさんは迷った、二年ほど迷い続け、やはり妻も母も
日本人という、日本との縁を思い、1962年、昭和37年に妻と一人
娘を連れて日本にやってきた。
その一年後くらいか、ある人がエディをハワイから訪ねてきた。
ハワイ生まれの日系三世のポール・、タケシ・フジイだった。
それが後年の藤猛であった。海兵隊員として日本の米軍基地にいた。
高校時代から馴染んだボクシングに戻るつもりだったが、ハワイに
かえってやるか日本にいてボクシングをやるか、やはり迷っていた。
ポールはアマチュア時代、ハワイのエディさんのジムを訪ねたこと
があった、というか遊び半分でデイ入りしていたのだ・・・
以上のような出だし、のエディさんだったが、「仕事がある限り
」は日本にいる、という考えだったが、終生、日本に滞在、最後は
井岡弘樹の世界王座、そのトレーナーとして最後の力をガンの最悪
の体調で貢献した、のはテレビ放送もされ、印象に残る。
1988年死去 1914~1988

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