斎藤真一「瞽女、ー盲目の旅芸人」画家なのに瞽女へのあまりの異常な興味と探究心
さて、岡山県倉敷市児島の味野の出身という斎藤真一、ただ
児島は備前は備前に属し、本来の倉敷市が備中というのと異な
る。これは1965年の倉敷との合併で児島に反対論が多かっ
た理由だが、むろん、交流は岡山市より倉敷がメインである。
本人は戦前は私立の天城中学に自転車で通った。これは遠い。」
根性があるのだ。
画家でありながら執筆活動が半端なく、「吉原炎上」の原作者
ともされている。とにかく興味をもったものを徹底的に追求する
という性格である。
斎藤真一、1922〜1994、」画家になり得た。パリ留
学もなし得た。根底にあるものは、興味をもったものは徹底し
て探求し尽くすというものだ。畑違いの対象についてである。
一人の画家が旅先で津軽三味線の音色に惹かれた。その音色が
越後や越中の瞽女によって作られた、という話を聞き、この盲目
の女旅芸人に異常なまでの興味を持ちちえるのか、だ。
この興味を持つレベルが異常なのだ。斎藤は高田に住んでいる
瞽女を訪ね、迷惑も顧みず、その日常生活を丹念に調べまくり、
実際に瞽女たちが歩いた道をたどり、宿泊した宿を尋ねて昔の話
を取材したのだ。
これが単なる好事家のなせるわざではないのは、表紙、口絵、
挿絵などの瞽女の絵をみたら2納得できるだろう。なぜそこまで
興味を持てるのか、である。
第一章「瞽女との出会い」、それに続く「瞽女の宿」が中心部
分だろう。そこでは斎藤真一が実際に瞽女の歩いた道、越後路や
信州路を歩き、まさしく身をもって感じた事柄、瞽女や村人から
の聞き取り調査が述べられている。斎藤真一と瞽女との心の対話
というものだ。
たとえば、瞽女と一緒に歩いた行商人の思い出話を聞きながら
、斎藤は「今は人が忘れ去った本当に平和で心情的な心の故郷を
感じてならない」と
重い荷物、15キロもの荷物を背負って山奥の集落に入り込む
瞽女の生活は辛酸などというものではなく、悲劇である。斎藤は
どこまでも事実に即して」その悲哀を語り、斎藤の身内より瞽女
を可愛がったというから大変な凝り性であり、半端ない男だ。
「瞽女唄」では彼女らの歌が心の歌、魂の歌であると語る。最
後の章「杉本キクエとの問答」では斎藤が敬愛する瞽女が「今の
歌謡曲など赤ん坊の歌だ」という認識は斎藤の絵画への認識に通
じるだろう。
「瞽女の歴史」は江戸時代における瞽女の特別待遇について語
るが、このような画家らしからぬ探究心、異常な興味をもつ人間
性が画家にして「吉原炎上」の原作者足り得るという面目だろう
か。結びの言葉は「瞽女さんたちと村人の中、一握りの人々との
心のふれあいに彼女らの本当の歴史がある」である。さすがの
「吉原炎上」の原作者である。
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