北京原人の骨化石の行方、NYの外科医、フォリー博士の回顧、最後の最後で化石収納のトランクが不明に


 北京原人の頭蓋骨の行方不明については諸説がある。実は
1971年にNYの自然史博物館の人類学部長のハリー・シャロピ
博士によって同博物館発行の学術誌「Natural History」11月号
に発表され、世界に発信された。この情報提供者はウィリアム
・フォリー博士という心臓外科医、フォリー博士の助手から、
自然史博物館に北京原人の骨の追跡調査について電話がかかっ
たのがキカッケ、話を聞いたのは同博物館のシャロピ博士、
助手はハーマン・デービス氏、

 フォリー博士は当時、北京の協和医学院から北京原人の骨を
戦禍から守るため、アメリカに移送することを依頼された人物
であり、助手のデービス氏は、当時、天津にいたフォリー博士
の依頼で、トランクに骨を詰め込んだ人なのだという。

 実は1951年、中国共産党機関紙で

 「北京原人の骨はアメリカ人が持ち出し、NY(ニューヨーク)
の自然史博物館に保管されている」と批判したことがある。この
攻撃は繰り返されたが、その自然史博物館の最高責任者がこの、
シャロピ博士だったのである。シャロピ博士は中国からの批判の
矢面に立って「事実無根」と否定した。そのような事情でフォリー
博士の情報に飛びついたのはいうまでもない。

 【北京原人の骨の不明までの経緯】

 北京郊外の寒村、北京の西南約50kmにある周口店から50万年
以上前の原人の骨が、化石が見つかったのが1926年である。
発見したのはスウェーデンの地質学者アンダーソン博士と古生物
学者のズダンスキー氏、最初は大臼歯、小臼歯各一本、そこで
組織的な発掘が進み、以後、1937年の盧溝橋事件までの8年間に
約40体分の人骨の破片が発見された。中には頭蓋骨も9個発掘さ
れた。

 調査資金は主にロックフェラー財団からの援助、同財団の経営
の北京協和医学院の解剖学教授ブラック博士、後任となったワイ
デンライヒ教授を中心に研究がなされた。

 だがに日中戦争、さらに日米関係の悪化、ワイデンライヒ教授
は中国からの最後の引揚船でアメリカに戻った。北京原人の化石
は協和医学院解剖学棟の新生代研究室の倉庫に保管された。同教
授は骨の石膏模型と研究資料だけを保管して帰国した。

 1,941年12月、いよいよ日米開戦必至、という状況で真珠湾奇襲
の前夜、迫る危険を危惧し、北京原人の化石を安全な場所に移そう
と決め、当時の北京地区海兵隊司令官、アメリカ大使館付のアシャ
ースト大佐を招き、アメリカへの移送を頼んだ。

 12月5日の朝、大佐と海兵隊員は化石をを数個の容器に分けて収
め、フットロッカー(輸送用小型トランク)数個に入れて、海軍
特別列車で北京をたち、東海岸の奏皇島に向かい、そこでアメリ
カ輸送船プレジデントハリソン号に積載の予定だった。だが12月
8日、真珠湾攻撃、日米開戦、一気に戦火は太平洋一帯に広がっ
た。以後、北京原人の骨化石の行方は不明となった。 


 【諸説】

 以後、北京原人の骨化石のゆくえにつき、戦後も何度も調査され
たが憶測を超えるものはなかった、といえる。

 ① 無事に奏皇港までは着いったが、港からハリソン号に向かう
途中でハシケが転覆し、化石は海中に没した。ハリソン号はその後、
日本軍に接収され、勝鬨丸と名前を変えたが、最初の航海で米軍の
潜水艦に撃沈された。

 ②列車が北京から天津まで向かう途中で日本軍の襲撃を受け、貨
物が略奪された、という説。日本軍は化石の価値など理解せず、廃
棄したか、「龍の骨」などとして現地人に売ったか、いずれとされ
ている。

 ③1952年、NYタイムズ1月5日記事

 化石は奏皇港まで無事についたが、そこで日米開戦、海兵隊員は
捕虜となって貨物は日本軍に略奪された、という。終戦後、その調
査で進駐軍は東大人類学教室の教授、スタッフらがGHQのモリソン
博士から呼び出され、調べを受けた。その結果、東大には原人化石
はないが、GHQ調査とは別に米陸軍の地質学者、フランク・ホイッ
トモア博士が1946年11月、東大を訪ね、人類学教室で周口店から出
た北京原人より遥かに新しい後期上洞人、約2万年ほど前の人類、の
遺品を見つけた。北京原人ほどの価値はないが貴重だという。

 ホイットモア博士に対応したのは鈴木尚教授だったが、出土した
道具類などはGHQに結局渡したという。これは中国に返還されずア
メリカにあるという。

 【フォリー博士からの情報】

 化石はとにかく無事に奏皇港までは着いた。フォリー博士は、当
時、海兵隊付きの医師で天津に滞在、同時に協和医学院の研究員で
もあった。中国に三年間滞在の義務を終えてNYの自宅に帰ろうとし
ていたとき、当時の上官、アシャースト大佐から、北京原人の骨化
石を移送したいが、安全上、フォリー博士の個人荷物に入れて持ち
帰ってほしいと頼まれた、という。民間人のフォリー博士宛の方が
安全と考えたようだ。

 フォリー博士は原人の化石が数個の大きなガラスの容器に入れら
れ、フットロッカーに収納されるまでは見たという。作業が終わっ
て発送のときは天津にいた。トランクはフォリー博士の持ち物とし
てその名札が付けられていたが、他のトランクにはアシャースト大
佐の名札もあった。フォリー博士にはこのように送り先が別れてい
るのが理解できなかった。

 いずれにしても、これらトランクは奏皇港に向けて発送された。
そこで予定通り、プレジデント・ハリソン号でマニラ経由でアメ
リカに送られるはずだった。

 奏皇島には海兵隊のホルコム・キャンプがあり、フォリー博士
の付く17人の部隊が駐在していた。フォリー博士は当時、薬剤助
手のデービス氏に、もし自分宛ての荷物が着いたら、部屋に保管
を依頼した。

 12月8日までに、荷物は無事に着いた。デービス氏はフォリー宛
の荷物をキャンプの部屋においた。8日の朝、いきなり日本海軍の
巡洋艦が現れ、キャンプを取り巻き、降伏を要求した。

 デービス氏は海兵隊の伝統で抵抗しようとし、北京原人のことは
一切知らず、フォリー博士宛の荷物の上に機関銃を据えつけ、いつ
でも撃てるようにしていた。だが間もなく、北京から降伏命令が届
いた。海兵隊は天津の捕虜収容所に送られた。各人に一個の携帯荷
物は許した。残りはあとから送られてくる手はずだった。だが後日、
日本軍がひとまとめにした荷物を送ってきたが、その中には原人の
骨化石らしいものはなかった。もしキャンプ内で略奪されたら、無
価値な骨とみなされ、捨てられた、と見ているという。

 他方、フォリー博士は12月8日の開戦と同時に、天津で拘束され、
海兵隊のバラックに一週間抑留され、その後、イギリス租界にあっ
た家に帰宅を許された。准外交官待遇だった。その後、しばらくし
て、手つかずの荷物が数箱送られてきたが、その中に現人骨化石は
紛れもなく存在した。

 フォリー博士は戦況が激しくなり、再度、抑留の危険を感じた。
このままではトランク内の原人化石が危ない、そこでトランクを
安全な場所に隠そうとした。一つを信頼できる中国人友人に預け、
他の二つを天津のパストゥール研究所、スイス保税倉庫に預けた。

 フォリー博士が外交官特権を失い、収容所に送られたのはそれ
からすぐだったという。上海近くの収容所でアシャースト大佐に
再会できた。フォリー博士はここで大佐の名札の荷物に原人化石
があることを見た。このトランクは収容所の倉庫に置かれ、日本
軍の再三の捜索を免れていた。後に上海近くのキャンプに移動さ
せられたときも海兵隊員の機転でこのトランクもまんまと移送さ
れた。

 だが、最後のトタン場で移送されたはずのトランクの行方がわ
からなくなった、という。フォリー博士がその荷物を最後に見た
のは大佐が北海道に移されるため隊を離れた時、フォリー博士も
相前後して仙台に、大佐は戦後数年目に死亡し、手がかりは掴め
ないという。

 この内容、わざわざこんな作り話など作る必要もないから、ま
ず事実だろう。

 日米開戦のタイミングに遭遇した、また日中戦争による日本軍
の活動が原人化石不明の要因というほかはない。今後も発見される
ことはないであろう。


  周口店の北京原人記念施設

 
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