袖井林二郎『夢二 加州客中』1986.アメリカにおける竹久夢二とは

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 竹久夢二がアメリカ旅行を行った、という事実は意外と知
られていない、というのか、意識されていない。私も竹久夢
二がアメリカ旅行をやった、など実はずっと知らなかった。
実は夢二は1931年、昭和6年5月7日、秩父丸で横浜港をから
出発、ハワイに到着、二週間ホノルルに滞在し、今度は龍田
丸に乗って6月3日にサンフランシスコに到着した。以後、1年
3ヶ月、カリフォルニアの日本人社会で過ごした。絵はさっぱ
り売れず、貧困生活を送った。

 戦前、20世紀初頭くらいからアメリカ、特に西海岸での日
本人移民排斥運動は激烈を極め、日本人移民をほぼシャット
アウトの差別的な法律がアメリカで制定された。日本人はア
メリカの露骨な民族差別に激高し、国内でも抗議活動が沸騰、
大正末期から昭和初期にかけて「日米戦わば」という類の本
が数多く出版されていた、・・・・・できればアメリカ、ま
して西海岸に踏む入りたくないようなものだが夢二は渡米し
た。

 無論、芸術志向の夢二にとってアメリカは目的地ではなく、
ヨーロッパ旅行への一つのステップと考え、アメリカで資金
づくりを狙った。「榛名山美術研究所」計画も放棄し、国際
的な計画に乗り出した。

 といって助言者的存在がないと無理なことで、翁久充とい
うアメリカ帰りという「週刊朝日」の元編集長のプロモーシ
ョンがあったという。在米中は邦字新聞の記者として働き、
アメリカに知人も多い翁としては夢二に託しておおいに何か
期待するものがあったようだ。だが二人の性格は相性も悪く
、夢二の金銭感覚のいい加減さ、ルースさ、さらに邦字新聞
にストライキ発生、これが直接の原因となった二人は決裂し
た。夢二のカリフォルニア州での苦難、加州客中の苦闘、貧
困が始まった。

 翁と袂を分かった夢二はカーメルで個展を開催、全くの不
発に終わる。要は夢二の絵はアメリカでは受けないのだ。夢
二の滞米生活は多く在米日本人の援助があってのことだった
が、結局、夢二は支援してくれる在米同胞も遠ざけてしまっ
た。夢二は画風の行き詰まり打開にアメリカでの生活を期待
していたようだが、それも無為に終わったとしか思えない。

 袖井さんはアメリカ日系社会に詳しい方だけに、現地新聞
などの資料を、またその他の文献資料も調査、関係者の証言
などを引き出して、夢二にとってのアメリカを探っている。

 カリフォルニア南部滞在のデカダン詩人の平田露風、三好
峰人など、滞米中の夢二のよきパトロンの「メインのママ」
こと、高橋しげ、また残務整理を』担当した坂井米夫。アメ
リカに残された夢二の作品がどうなったか、それもドラマで
ある。

 夢二にこんな経験があったのか、と学ぶべきことがおおい
本だと思える。


  

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