とりあえずは今日からがまた人生スタート。喜びすぎず悲しみすぎず
陳腐な表現しかできないが、今日からまた人生スタートの
気分、というが、それしかない、わけである。私のように、
子供時代、青春時代から壮年時代、まったく理不尽な不遇に
苛まれ続けた人間は、いうならば人生の時間が逆転している
ようなもの、芥川龍之介の『河童』に、「若い頃は老齢のよ
うで年をとると逆に若く、幼くなる河童が最後あたりに出て
くるが、ちょっとそんな風情、だろうか。今が良すぎるので
はなく、過去が悪すぎるのである。そんな私は、みっちりサ
ラリーマン生活を全うし、年金も十分なひとのようなわけに
はいかない。これからがスタート、全身全霊で、と力むこと
もないが、奮闘しないと生きる意味を失う、というより生き
ていけないわけである。
人生に処する態度として、「これからどんな、悪いことが
起こるか楽しみ」確か竜鉄也さんの言葉だったが、これは正
しい心の態度とは思えないし、反対に「これからはいいこと
が、かならずあると思います」も誤りだと思う。つまり「い
いことも悪いことも、ありきたりなことも、いろいろあるさ」
が正しいと思える。悲観もせず楽観もせず、すべてを受け流
す、という心的態度ということである。喜びすぎず、哀しみ
過ぎず、そうでないと生きてはいけない。
私は15歳であまりに重篤な病にかかり、おまけに引き摺る
結果となってしまった。過去、体調はほんとに悪い時が多か
った、親と来たら学生時代から「家に戻るな、敷居をまたぐ
な、お前は邪魔だ」母親を見て「三つ子の魂百まで」とは
ほんとうに強く感じる。私が二歳ころから私を憎んで虐待、
その気持は結局、最後まで根底に流れ続け、最後に噴出し
た。全く、親、家庭に恵まれないというレベルではなかっ
た。だからどんなことにも耐えられるという副産物が生まれ
たわけであり、その魂をもってこれから生きる、冷静に、
悠然とである。心がけとしては、100歳までには病気をじっ
くり治していく、ということである。もちろん、今日明日に
も死ぬ可能性は人間だからあるわけだが、あくまで気分の
持ち方である。短すぎる人生に右往左往することはない。
100歳生きられるかどうか、は問題ではない、それくらいの
、多少なりとも長い目が必要ということである。
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