今東光『東光金蘭帖』(中公文庫)2005,文壇交遊録、全て懐かしい人情噺、谷崎、川端にあまりに無批判
2005年に中公文庫となって再版されたが、初版は1959年、
やはり中央公論社からであった。そもそも今東光とはいかな
る経歴なのか、というと明治31年、1898年3月に横浜市うま
れ、学校は何度も旧制中学を放校、大学に進学はしていない。
東大時代の川端康成と知り合い、第六次「新思潮」同人とな
る。大正12年、1923年、『文藝春秋』創刊と同時に同人とな
り、のちに「文芸時代」にも参加、『軍艦』などが好評を博
した。昭和5年、1930年に天台宗僧侶に、以後、八尾の天台
宗寺院住職、中尊寺貫主に、・・・・・
今東光がそれまで1959年まで、還暦を過ぎた頃だが、いろ
いろと接触した、何らかの意味で影響を受けた知友、恩師など
について、16人について述べている。誰かと云うと、菊池寛、
横光利一、川端康成、片岡鉄兵、谷崎潤一郎、直木三十五、
尾崎士郎、宇野千代、佐々木味津三、藤沢清造、郡虎彦、田村
松魚、鳴海うらはる、もうこの初版時点で世間から忘れられて
いる物故の作家も少なくない。
基本的に今東光は傍観者的な態度がとれない。交友関係でも
相抱くほど感激したり、逆に喧嘩別れをしたりという具合で、
至って激しい交際を通じて把握した独自の人物批評である。つ
まり人物自体の面白さもあるが、すべて今東光という激しい人
間性の反照というべき文章だろう。
たとえば菊池寛、怪しげなヤクザがかったチンピラに金をせ
いられ。「金ならあるよ、だが、お前たちにやるのはイヤだよ。
やらないよ、絶対にね」と、特徴ある黄色い声で突っぱねる様
子を見ていた今東光は、諾否を明確にして、断るなら徹底して
断ることん大切さを学んだ、という。
初版の二年前、昭和32年、1957年、今東光が母親を多磨墓地
に葬った時、ゆくりなく菊池寛の墓を認め、読経したという。
このとき、「菊池寛は地下で、『君、もういいよ、わかったよ、
短いお教でいいよと言いながら、、・・・」
菊池寛とは結局、今東光は大喧嘩して分かれたという、が、
恩讐の彼方にでもないが、懐かしさばかりということだろう。
横光利一とは、・・・・最初のころの『文藝春秋』が直木三十
五が執筆の「文壇諸家価値調査表」という、悪ふざけのゴシップ
記事を載せたところ、激怒した横光利一が今東光の住居にやって
きて、二人で相談して、そのばですぐに反駁の文章を書き、今東
光は『新潮』に、横光利一は『読売新聞』宛で投函した。その直
後、横光は川端から菊池寛に背くことの愚を諭され、新聞社にか
けつけ、間一髪で反駁文を取り戻したが、今東光の方の反駁文は
『新潮』の載ってしまった。今東光は菊池寛と衝突、長く憎まれ
て不遇の時代を迎え、それが結局、僧籍に入るきっかけとなった
が、反駁分を取り戻した横光利一は菊池寛直系の作家として文壇
の寵児となって「文学の神様」とまで敬われることになった。ま
さに明暗を分けたのである。
直木三十五が今東光が昭和5年、1930年に仏門に入ったことを
心配し、文芸家協会専属の僧侶にして月給を払おうということま
で提案してくれたが、結局、プラン倒れとなった。
佐々木味津三が、親戚知人の生活費のため、心ならずも大衆文
学作家となったこと、「巨人出口王に三郎」の序文で、今東光が
佐々木味津三について触れているのは印象にあったが、今東光と
の間柄は深いものがあったようだ。純文学に戻ろうとした矢先に
命が尽きてしまった佐々木味津三を哀惜している。佐々木味津三
が不遇時代の尾崎士郎、今東光を見て、今に必ず尾崎士郎の時代
が来る、その後に、今東光の時代が来ると予言してこの世を去っ
たのである。
芝公園で野垂れ死にした藤沢清造、几帳面な生活で部屋にはチ
リひとつなく、常に整頓されていたという。
師友を語りながら、やはり自分のことを語っている。かって
大喧嘩し、絶交した菊池寛も、もはや懐かしく、なんの恨みも
抱いてはいない。
だが川端康成、谷崎潤一郎については凡庸な記述しかなく、あま
りに無批判だろう。これは釈然としない、今東光の弱みである。
1924年、26歳の今東光
この記事へのコメント