陳舜臣『阿片戦争』1967、驚異的な歴史長編小説、その執筆動機

実際、アヘン戦争、といえば高校の世界史で習う、えらく
シンプルすぎる記述の世界史教科書、また参考書もさほど詳し
く書いているわけでもない。なんだか中国の不甲斐なさばかり
が印象に残り、林則徐、マスクに鋭さも何もない写真で、やや
ふやけたイメージを抱いてしまう。だが陳舜臣さんの『阿片戦
争』はそんなレベルで論じられない、当たり前だが。通読した
わけではない、大長編である。
阿片戦争を中心に据え、近代中国の黎明期、激動期を描き尽
くした歴史小説の超大作。三部に分かれ、上巻は「滄海編」、
中巻「風雷編」、下巻は「天涯編」、連載ではなく書き下ろし
作品、準備から完成まで五年を費やしたという。
執筆の動機は単に中国人だから、ではなく当時の詩人、饗定庵
の「定庵文集」を読んだことだという。実際、作品中にもその
定庵の挿話が挟まっていている。
定庵が官を辞し、北京を離れ、数奇な運命の糸で結ばれた愛
人の黙琴と袂を分かち、悄然と故郷の杭州を目指し、帰るとき
に、一人のみすぼらしい、老道士に出会った。道士は定庵に祈
祷文を草してほしいと頼む。定庵は何を祈願してほしいのか、
と尋ねた。だが道士は何を祈っていいやら分からない、あなた
の願いを書いてくれという。定庵はさすがに苦笑したが、すぐ
に厳粛なり、「こんな衰世だ、願い事ならいくらでもある」と
言って筆を執り
「生きとし生けるもの、なべた神頼み。万馬声なくまことに
哀れ、天よかさねて奮発をわずらわし、破格の人材を下したま
え」と一気に書き記した。
ひとみな、我が世の春を謳歌した乾隆帝の世から、いま動光
の世に移り、にわかな人口増加、それに伴う生活の窮迫、道義
の退廃、まさに八方塞がり、その絶望が人を阿片に追いやる。
この衰世を詩人は執拗に歌い、嘆いているがこれを「小説」に
移せないものか・・・・・・。
もうひとつの動機はイギリスの中国学者、日本学者のアーサー
・ウェイレー、「源氏物語」の英訳も成し遂げているが、その
「中国人の目を通じた阿片戦争」を読み、刺激されたからだとい
うのだ。ウェーレーはアヘン戦争の立役者、林則徐の日記とその
解説をベースにして執筆している。
陳舜臣さんが以上の二人の作品以外に、可能な限りの資料を
渉猟し、莫大な資料と格闘しながら大作を仕上げている。その
精神力には驚くばかりだ。
阿片戦争に焦点を絞って、中国近代化の激動の様子を書くと
いうのだから、基本、主人公は林則徐だが、さまざまな対立する
人間との絡み合い、当時の世相の絵模様のように、多様な要素を
織り込んでおられる。
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