中谷孝雄『のどかな戦場』1967,典型的な非流行作家のアピールしないタイトルの作品、生涯の代表作


 実は三高の出身の東大生を中心とした同人誌『青空』が大正
の末に刊行されている。その初期の同人として梶井基次郎、外
村繁、三好達治、淀野隆三らとともに中谷孝雄がいた。三高時
代の写真で梶井と中谷孝雄、もうひとりの三人で撮影された写
真はよく知られている。『青空』同人、初期の同人で戦後長く
生き抜いたのは中谷孝雄である。それほどの存在だが売れない、
のである。「新思潮」で芥川龍之介、久米正雄らと同人の松岡
譲も非流行だが漱石の娘と結婚し、妙な存在感がある。その点
、中谷孝雄は徹頭徹尾、非流行である。だが中谷孝雄の文学歴
はトップクラスに長い、1901~1995,長寿であった。

 1937年以後は執筆に専念だったがヒット作がない、作品数も
少ないが、とにかくその作品は地味すぎるのか知名度はない。
この昭和42年、1967年、激しい学生運動も起こり始め、社会が
激動期を迎えようと云う時代、『のどかな戦場』、まことにア
ピール性ゼロのタイトルである。間違ってもマスコミに追い立
てられない作家だ。戦後の作品も少ない、『業平系図』が多少
、目立つくらいか。これも知られていない作品だが。

 前作!『業平系図』から10年、やっとものにした長編だが、
あまりに時代に迎えられない、反時代的である。だから逆に云え
ば特色ある戦争文学だろう。流行作家の作品ではない。

 本作品は昭和18年11月にニューギニア、マノクワリ基地に上
陸、駐屯した著者の体験談がベースだが、すでに43歳の予備役の
少佐であり、兵站部隊の小隊長を務めた。以後、昭和20年11月に
いたる基地での生活を淡々と描いている。最初は二万人ほど駐屯
していたが徐々に減って6千人ほどになった。空襲は頻繁だった
が戦死した者はごく少なかった。結局、一度も戦闘はなく終戦を
迎えたのである。たしかに類まれな「のどかな戦場」には違いな
い。

 ただしマラリアと食料不足は免れず、餓死した兵士も少なくな
く、著者も栄養失調で軍医からあと一ヶ月が限度、と宣告されて
いたそうだから、「のどか」では済まされない。結果、戦闘はな
くとも半分近い兵士が死んだのである。

 もっとも芋の栽培に成功してからは、食糧事情も好転し、そう
なると兵士たちはのんびり、食べ物の話をするようになった。ほ
とんどは農村出身の兵士だから、美味いものの話に興じるといっ
て、五目飯とか餅とか、寿司、などくらいなもの、三つ葉のおひ
たしとセリとどちらが美味いかとか、他愛もない話である。彼等
はに日中戦争以来の30歳以上の歴戦の兵士ばかりで上等兵以下は
一人もいなかったという。日々は至って素朴なものだった。

 日常的な駐屯地のたたずまい、兵士たちと原住民との交流も、
いたってさり気なく描かれている。でもそのさりげない日常も、す
べて命令に依る生活に規定されていて、自主的な行動など出来なか
った。

 戦記文学としてはまことに稀有な内容と筆致である。これをもっ
て中谷孝雄さんの生涯の代表作としたい、とは思う。



 佐藤春夫の葬儀で(左)檀一雄氏と並ぶ中谷孝雄さん

 IMG_5886.JPG

 

この記事へのコメント