野上弥生子『秀吉と利休』1964,寸分も狂わない描写と豊かな情感、脱帽するしかない作品
あまりに著名な秀吉と利休を取り合わせた作品化、多くの
作家が小説化している。野上弥生子、78歳の作品だ。日本は
やれ高齢者はアクセルとブレーキを踏み違える、認知症だ、
警察は「交通安全」という基本的に誰も反対できない建前を
フルに利用して運転免許を通じて優生施策を思うままに行使
している、・・・・・とグチも云いたくなるほど何歳になろ
うと野上弥生子の頭の冴え、切れ味はすごいと感歎する。
どんな若々しい頭脳でも並の人間に書ける小説ではない。歴
史小説ながら真のリアリズム文学だ。
書きやすそうな、一見書きやすそうな秀吉と利休だが、作品
化して真に文学作品足り得るのは至難だろう。秀吉をどう描く
か、だれも真の姿は知らない、分からない、想像するのみだ。
資料はあっても信用できるかどうか分からない。比類なき超
英雄として描くのか、ロマン的に、あるいは野心家としてか、
また策略に長けた小賢しい矮小な人物と描くか、・・・・・
全て可能だろう。
ただただ感歎は歴史的人物を、超有名な秀吉、利休、石田三
成などを、なんというのか、過剰に大きくもなく、小さくでも
なく、真実どうか分からなにせよ、原寸そのままに表現する、
それは近代リアリズムに沿って、まず読者を納得させるように、
正確に描ききる。緻密で、堅固で、さらに情感も満ちている。
あまりに見事だ、
この少し前のインタビュー
「ご主人となれそめは?」
「ただ小学校からいっしょで、別に恋愛的な部分はござんせ
んよ」
「目の具合は?」
「それが本当にいけないんですよ」
「お子様はみなお偉くなって、学者一家で羨ましい限りです
ね?」
「ただ貧乏教師ばかりですよ」
・・・・・だが出来る作品はそのずっと前の『迷路』といい、
まさに傑作である。
秀吉と利休に政治的人間と芸術的人間の典型を見出し、対比
させる。二人は互いに自分にはない天分を相手に認めて尊敬し
あう。だが相手の天分を認めるには、あまりに大きすぎた。
利休は常に秀吉を意識し、そのご機嫌を伺う。秀吉は利休の茶
の湯の立派さに圧迫される。政治的野心遂行のときの心理的な
障害にさえなってくる。互いの尊敬は徐々に憎しみに転化する。
小田原の北條氏を平定した秀吉は、入唐さえ目指す。壮大な
野心を抱く、朝鮮にまず出兵する、利休は「唐御陣は、明智討
ちのようにはいくまい」と不用意に口走る。タブーを犯した。
大徳寺三門に掲げた利休の寺像も不逞とみなされた。秀吉は堺
に追い払った利休に切腹を命じる。利休は自分の死で秀吉が得
るものは何もないと見抜いて切腹する。権力と芸術の相克であ
る、・・・・・・と野上弥生子は見事にリアリズムの極地で描
ききった。堺の町人文化も、町人都市の背景も綿密だ、登場人
物も抜かりない。政治と芸術の一般論に決して深入りしない。
しかし、これでいいのか?とも感じるだろう。さらに人物の
深堀り、リアリズムで全て解決出来ない真実こそ多いのではな
いか、・・・・・・だがそれ以上望むのも欲張りということだ
ろうか。利休の娘を側室として秀吉に出すのを拒否、は実質的
に要因となったと思うが。
女性作家で最も偉大?な作家は誰、・・・・基準は多くあり
得る。一人の有力な候補で野上弥生子は挙げられるだろう。
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