愛新覚羅浩〔嵯峨浩〕『流転の王妃』初版1959、慧生さんの心中事件の二年後の刊行、1960年に再び中国へ

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 1957年、愛新覚羅浩さんの長女、戦前から日在住だった
愛新覚羅慧生さんが天城山で心中、大きなニュースとなった。
高木彬光の『成吉思汗の秘密』の初版は、天城山心中につい
ての言及で終わっていたが、その後、決定版で仁科東子さん
の登場の「成吉思汗という名の秘密」という章が加えられ、
それが決定版となった、・・・・・ちょっと余談だが、天城
山心中の悲劇の衝撃が覚めやらぬ1959年6月だったか、この本
は刊行された、その後、愛新覚羅慧生さんの死亡後のことを
書き加えた「流転の王妃、昭和史』が刊行された。

 愛新覚羅浩さんは大正3年、1914年、に嵯峨公爵家の三女
として生まれる。終戦の動乱で夫の溥傑は収容所に、浩さん
な1947年、日本に帰国、その後、溥傑が釈放され、1960年に
浩さんは再び中国へ、溥傑と再び生活を初めたがその後も文革
の動乱で紅衛兵に襲撃されるなど波乱、1987年の北京で73歳で
死去、初版は中国へ再び渡る前年に刊行されたものだ。

 公卿の出である嵯峨公爵家の生まれた浩さん、ひろさん、だ
が昭和12年、1937年に満州国皇帝溥儀の弟、溥傑と結婚。この
結婚は当時の陸軍の一部と本庄陸軍大将の画策の結果である。

 満州国建国時は王道楽土とか、五族協和とか、さまざまな美
辞麗句的な理想が掲げられたが、このような理想を利用して満
州に日本の勢力を拡大しようとする関東軍は、日満一体化とい
う理念の看板のため、清朝と日本の公卿との政略結婚を考えつ
いた。

 だがすでに満州を超えて北支にまで野望をいだいていた関東
軍は、このような政略結婚にすら冷酷な目を向けていた。それ
は実際に溥傑と結婚後、満州に移り住んだ広浩さんがいかに関
東軍から扱われたか、家庭内のこまごまとした事実を語るうち
に、その状況が示されている。皇帝の溥儀と関東軍の関係は全
くしっくりいかず、絶えず猜疑心の隙間風が吹いていた。宮廷
内の諸事情を語るうちにそれが描かれている。

 だがソ連軍の怒涛の侵攻、日本の敗戦、満州国宮廷から見た
関東軍のあまりに情けない様子が述べられている。朝鮮国境近
くまで浩さんは皇帝一家らと逃げ延び、さらに日本の京都に向
う予定だったが、その飛行機は日本へとは逆方向、奉天に向か
い、着陸、そこで一行はソ連軍に囚われる。

 残された皇族の女性たちは、暴徒や共産党軍に襲撃され、散
りじりとなって逃亡、浩さんは皇帝の溥儀の皇后と一緒に逃げ
て捕らえられる。刑務所に送られるが、すでにアヘン中毒とな
っていた皇后の哀れな最後の姿は、例えば映画「ラストエンペ
ラー」にも描かれれいるが、滅びゆく国の惨めさを象徴してい
た。

 浩さんはされに北京に送られ、さらに上海に移され、半年後
、日本に戻された。1947年、昭和22年である、その10年後の
悲劇、天城山心中である。

 ただ、初版はご自身の執筆そのままで、誰かに手を加えても
らっていたら、構成など読みやすくもなったと思う。逆に、
読みづらさを耐えれば、その細やかさに心打たれると思う。



 刊行後のインタビューもある

 Q「ご主人の溥儀さんは、撫順ですか?」

 浩「皇帝が撫順城においでになるので、主人も一緒にそこに
おります。抑留とか戦犯ではなく、保護ということです。むし
ろ昔の宮廷生活より優遇されているようです。大陸的と申しま
すか、おおらかですね。イデオロギーを超えております。主人
は日本の古典を訳しております。漢和辞典とか現代の国語辞典
を送ってくれといってきました。今すぐでも帰ってこいとも云
いますが、こちらでの仕事を済ませてからと考えております」

 Q「こちらでの仕事といいますと?」

 浩「慧生の遺品の整理とか、また印税をもとにして法人を組
織し、向こうから来たときも気楽に泊まれる安息所を作りたい
のです。周恩来さんも法人のことはご承知で、留学生の世話を
してくれるなら、あなたが一番適当な人だといいます。この本
をかいたのも、撫順にはまだこのような人もいると知らせたく
て、満州国の葬儀をしなければ、という思いです」

 Q 「本で世界一の女性とまで書かれている三格姫、溥儀さん
の妹さんのその後は?

 浩「臨江の人民裁判からは救出され、今は北京政府の要職に
あります。私より一歳上ですが、慧生ととても似ています」

 

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