松本恭子、松本清張をベストセラー作家に育てた編集者(光文社など)48歳でガンに倒れる

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 松本恭子で検索しても松本清張を育てた最初は光文社の編集
だった松本恭子はまず出てこない。「俳人」の松本恭子が大半
である。それほど編集者たる松本恭子の名は知られていない。
松本清張の『点と線』を世に送り出し、松本清張を社会推理の
ベストセラー作家に育てた松本恭子である。

 俗にだが、それで言い尽くせるものでもないが、推理小説で
「清張以前、清張以後」という言葉があるという。私は承服で
きないが、一面の真実は伝えると思う。推理小説といって、乱
歩流の現実離れ推理小説でなく、社会推理小説である。社会推
理の国内のパイオニア、であると同時に古典と言わざるを得な
い『点と線』が光文社から刊行されたのは昭和33年、1958年で
ある。清張が雑誌「旅」に連載していたこの作品を読み、傾倒
し、当時の神吉晴夫出版局長を説得し、光文社からの刊行に踏
みきらせたのは若い編集員であった松本恭子なのである。

 翌年、1959年に創刊されたカッパノヴェルズの副編集長とし
て、『セロの焦点』、『砂の器』など、松本清張の今に伝えら
れる代表的な作品を次々に手掛け、刊行したわけである。

 当時の編集長の伊賀氏の回想だが「彼女が泣くと、これは何
とかなる、とよくいったものです」、「多忙で原稿が遅れがち
な清張氏に『約束が違うじゃないですか』と言うにしても、私
達がいうのと彼女が云うのでは全然効果が違いました」

 だが松本恭子は非常に緻密な頭脳の持ち主、で古今東西の推理
小説を読破し、あらゆるトリック、プロット、レトリック、作品
の構成に精通し、作家自身も見落としがちな矛盾もさ奥座に指摘
したという。その卓越した能力は清張も「あれほど頼りになる編
集者はいなかった」と述懐するほどだ。文藝春秋社から出た「
松本清張全集」も松本恭子にそのチェックが委ねられたのである。

 松本恭子は光文社を退職後、各出版社のモニター業務に携わっ
たが、その博識、鋭い文学センスを評価され、作品執筆を勧めら
れたが、さり気なく笑って固辞した。つまり根っからの編集者で
あった。

 編集者というプロの職業人として「陰の存在」に徹し、また
私的にも日常生活、プライベートをかたることはなかったという。
三年あまりの結婚生活、その破局、また出版編集という人間の修
羅場を知り抜いていたということだろうか。仕事上では深い絆の
清張も「20年以上、一度も彼女から私生活について話をされたこ
とはない」という。「女性としてハードな性格だった」という。

 だが「敬語にしても、言葉の使い方、家庭のしつけの良さ、育
った環境の良さを感じます」ともいう。単に気丈なだけの女性で
はなかったのだ。

 日本画家の松本姿水の次女として東京の本郷・林町に生まれ育っ
た恭子さんは、少女時代から「父が『出ていけ』というと、本当に
さっさと出ていくような子でした」と姉はいう。気性も激しかった
ようだ。二十代半ばでアパートでひとり暮らし、自立心がすごかっ
たという。18歳で編集の道に、周囲が「仕事以外に趣味はない」と
あきれるほどの徹底した頑張り屋、努力家、・・・・・だが最後の
頃は文楽、歌舞伎も楽しむようになっていたという。なにか運命を
察知していたのか、1978年、昭和53年4月20日、午後3時40分、癌性
腹膜炎で48歳でこの世を去った。おしゃれで気取り屋、姉は「あの
人なりの美意識はまっとうしたのではないか」と呟いていたという。

この記事へのコメント

国東散人
2023年12月18日 23:54
詩人の大木敦夫には一男三女があり、この長女次女が文春、中公で
松本清張付きの編集者だったことは知っていましたが、この方は
知りませんでした。伊藤整の文壇史にも並びうるご健筆に、敬意を
表します。