人生の新たなスタートは何歳からでも出来る、地道に地味に


 人生の新たなスタートと言って年代によって内容は異なる。
強いて云えば中年までならまだまだ大学再入学、あらたな道
の模索は可能だ。人生は一本道ではない。曲がりくねった道
を歩む羽目になっても、そのほうが単純な道より価値があると
思う。例えば国立大の歯学部などと云えば、もう吹き溜まりの
ような場所で、大学など二回目は普通で三回目、多い人は四回
目の大学入学、なんてひといたくらいだ。まあ三回目くらいは
、ほぼ普通である。医学部は難関、そこでやむなく、医学部は
断念、歯学部、このパターンは多いが、歯学部に入ってまた
医学部再受験をする人も少なくない、目的を見事達成、という
方もいる。友人がそうだった。・・・・・・

 だが高齢!と世間で言われる年齢になっての新たなスタート
は意味が少々以上に異なる。なにより人生、なすべき探求、や
リ残した勉学は膨大である。今まで多少でも学び修得し得たこ
となど太平洋の一滴のようなもの、それを思えば年齢をどうこ
ういって仕方がない話である、残り人生の長さ、といって人生
なんて赤ん坊だって残された時間は、たった二桁の年数でしか
ないのである。人間すべて、残り時間なんかわずか、だから何
歳になったから学びをやめる、は無意味以上に愚かである。
勉強と云って学校で学ぶ勉強や試験ための勉強は真の勉強では
ない。自分が学ぶべき、研究すべきテーマ、それこそ生きがい
、そのもであり、何歳になってもその必要性は高まるこそあれ、
低下することはない。

 といって意識過剰になることはないので、何歳になろうが地道
道に地味に、楽しみながら、である。

 私は『レ・ミゼラブル』をフランス語で読み通す、これも趣味
的でしかないようだが、趣味こそが研究に通じるものである。何
もいかなる意味でも収入につながるものではなく、出費になるく
らいなものだが最近は電子書籍、ネットでも容易に原文に近づけ
る。昔では考えられなかったことだ、・・・・・それは一例でし
かないが、若い頃など、勉学と云って学校にまつわる勉強ばかり、
そんな者は真の意味はなく、自分自身の生涯のテーマをあせらず
追求したい、それだけである。

 

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