志賀直哉の戦後、あまりの低迷の理由を考える

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 戦前の「文学の神様」ぶりからすると戦後の志賀直哉は全
く精彩を欠いた、目立つのは「国語をフランス語」にとか「
大河の一滴」という言葉くらいで作品的には終戦ごまもない
時期の『灰色の月』くらいだろうか。実は雑文的にはかなり
書いているのだが、戦前の面影は消え失せた。終戦の年で62
歳、若くもないがそれで失速は解せぬところだ。

 旺文社文庫『暗夜行路』のあとがきで武者小路実篤が書い
ていたのだが、「若い人が志賀が作品を書かないことに対し、
残念がっていたのだが、それを聞いて志賀は『君にはそんな
ことを云う資格はない』と言った。僕にはそういうことは云
わなかったが」

 これは何の変哲もないようで実は重要な文章だと感じた。
若い人とは例えば新潮社の編集員くらいだろうか。なぜ、戦
後の志賀直哉は失速した、生涯作家の道を歩まなかった。「
フランス語を国語に」では「日本語では本当に如何に表現が
難しいか、常に感じていた」・・・・・で言うならば、自己の
文学を半ば否定したようなものだ。実はこの「フランス語論」
は戦後の志賀直哉を理解する上でに非常に重要と思われる。
日本語ではろくな表現はできない、さりとてフランス語も書け
ない、・・・・・・結局、作品執筆からは離れてしまった。

 1971年、昭和46年10月21日、志賀直哉は88歳で亡くなった。
大江健三郎さんと同じ年齢での死去だ。
 
 雑誌で多くの追悼記事が掲載された。明治末年の『白樺』の
創刊以来、近代日本文学のバックボーンだった志賀直哉を思え
ば当然であろう。

 記憶に残るものは「中央公論」のともに志賀直哉の弟子筋の
網野菊、阿川弘之の対談であった。晩年の志賀は安楽死の合法
化を唱えていた。文字通りの不老長寿でもなく、老年で醜態を
さらし、人に迷惑、負担を強いるならいたずらに長生きしたく
はない、ということだ。NHK教育の追悼番組にも阿川さんは出
演されて「老いていろいろ醜い姿を晒すのをいやがられていた」
と阿川弘之さんの気品を感じさせる話しぶりだった。

 私が感じるのは老醜を晒したくない、長生きしたくない、そ
れは一理以上あるが、ひとの寿命は短い、老醜を心配するより
、そうならないよう、生きている限り、努めるべき、そのうち
死にたくないと云って死ぬ羽目になるのだから、老いて、どう
こうなど考えることはない、老醜を避ける努力に徹すべきと思
われるが、

 志賀直哉が老醜にこだわったのは戦後の志賀直哉の全くの
作家としての低迷が深く関係していると思われる。ばりばり
活動していたら、そんなことを考える暇もないと思うが、ど
うも戦後の志賀直哉には疑問符がつく。

 やはり志賀直哉の弟子の藤枝静男も「文芸」に追悼文を書い
ていた。その最後に、小林古径らしい老画家の入院生活の挿話
とともに、看護婦に触りたがるような痴呆ぶりの慨嘆する志賀
直哉の言葉が記されていた。藤枝は返事に窮したという。志賀
直哉の戦後は一貫して一種の人為的痴呆だったのでは、という
気さえする(これは私の考え)。

 志賀直哉の子息が、父の死をもっとも嘆いているのは母親だ
ろうと趣旨の挨拶を告別式で行った。それはそうだが、戦後の
志賀直哉はやはり寂しかった、というべきだ。編集員の言葉
に対しても、志賀直哉は配慮にかけていたと思う。

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