よくもわるくも年末の一日、経験がないような微妙な心理

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 今日は昼まで仕事、昼からはやり残したこと、雑用をいろい
ろ、クリニックのエアコン、2台のクリーニング、これは家電
量販に依頼してのことである。室外にはカビがかなり、これを
やってもらっておけば、当分、冷暖房効果は期待できそうだ、
仕事で出た廃棄物をゴミ処分場へ、さすがに入り口からはるか
外まで長い車の列である。年賀状は出したし、投句も今月の中
旬には終えている。投句とはもちろん、俳句である。大掃除は
随分前からやらないことにしている。疲れを出すのみ、

 今年はあまり考えたくもないが、古希である。15歳で重病、
その後高校に復帰したらあのとき、最初入院していた病院の
医者が「まだ生きているのか!」と腰を抜かすほど驚いたそ
うだが、それからほどなく、その医者が同じ病気で亡くなっ
た。病気に対する智慧を持たない人間は早くに亡くなってし
まう。あの医者はおよそ腎炎について考え違いをしていた。
大学で学ぶ療法など、腎炎には意味はない。難しくはない、
病と虚心坦懐に付き合えばいいだけである。生死一如の精神
でえある。・・・・・・とまあ、思ってみて、最低限の年数の
クリアーは出来た、されど人生に業績なし、これでいいのか、
とさすがに気分も落ち込みがちだが、とにかく人生の成功不成
功など真の価値ではない、ただ生きたこと、それだけ、という
一種のあきらめの気持ちに近いが、道は曲がりくねって彷徨の
つまみ食いのような人生、認めるしかないというところである。

 そこで私においては最大の関心事は体調の管理である。こん
ごは「ノーモアおでん」で行くしかない。練り製品の健康、特
に腎臓への悪影響は今月の苦渋であらためて思い知った。

 「年末に一日」というと芥川龍之介の小品がある、晩年とい
って33歳の年末、33歳など若すぎないか、二十代が終わったば
かりに年齢、若さであの身心の衰えはなんだろうか。最大の原
因は芥川の場合、喫煙であろう。若い頃は牛乳も飲んで全く、
健康体であった。『年末の一日』は心境エッセイであって小説
とはいえない、私小説でもないが、宇野浩二「妙に心を打つ」
痛々しい小品、というコメントは適切だろう。

 体調が悪い事の効用は、他の悩み、イヤな記憶を相当部分、
忘れさせてくれることである。私には有り難い面もないでは
ない。人間は一体全体、明日生きていられるのかどうかも、定
かではない、すべての人にとってであるが、いつ人生が終わっ
ても不思議ではない。死ねば自分はいないから死んだことなど
分からない。端的に言えば熟睡し、そのまま起きないこと、と
同じことだ。

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