この世のものではなさそうで、この世でしかあり得ない苦渋と汚辱


 2023年も過ぎ去ろうとしている、気持ちがまとまらない、
やはり人生の節目は過ぎたにしても、ほんの僅かの時間でし
かない人生、押し寄せる苦い記憶の、それが無数なのだ。そ
れらは、この世のものではなさそうで、この世でしかあり得
ない苦渋、汚辱である。やはり育った家庭、両親、通った学
校でのあまりの苦渋過ぎる記憶は薄らぐことはなく、この年
齢になって、さらに痛切に心を切り刻むようだ。よく、この
世のものではない、と云うが、あの世も他の世もない、死ぬと
いうことは「無」、・・・・・無と云うなら無に違いないよう
だが、私は常々、死とは「設定が一切ない」ということだと思
っている。宇宙空間に無が浮いているようなイメージは誤りで、
設定がない、時間もない、空間もない、一切の概念もない、
草原にキャンバススタンド、キャンバス、そのキャンバスに何
も描かれていない、のが死ではなく、一切がない、草原もキャ
ンヴァススタンドもない、時間がないから過去も未来もない、
生まれる一年前も、100億年前も同じこと、さらに死んで1分後
も一兆年後も同じ、時間がないのだから、・・・・・あの世も
前世も別の宇宙もない、今この生きている自分がいるから宇宙
もある、・・・・・そこでの苦渋、汚辱はこの世界でしかあり
得ない、だからこそ、個人差はあるが、僅かの時間の無限の苦
渋といわけであろう。不条理は極まりない、そこには何の真理
もない、どこまでも、この世のものではなさそう、だがこの世
でしかあリ得ない苦渋が満ちてくる。死ねば無でさえない。
なにもないとも云えない、一切のコメントされる対象がないの
であるから。

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