横溝正史(中島河太郎編集)『探偵小説五十年』講談社、いたってざっくばらんなエッセイ
刊行されたのは1972年、昭和47年、講談社から『横溝正史
全集』全10巻が完結、別巻として中島河太郎編集になる横溝
正史のエッセイ集である『探偵小説五十年』が刊行された。
この1972年は1902年生まれの横溝正史の古希であった。その
記念ということもある。豪華本の仕上がりである。全集の月
報に載せられていた正史の「途切れ途切れの記」はすべて、
それまで発表されたエッセイ、随想の数多く収録している。
最後に中島河太郎になる年譜、作品目録が添付されて本当に
多大の努力の結果、という本だろう。
江戸川乱歩には『探偵小説四十年』という著書があるが、こ
れを読んで私は大いに失望した。つまり日本の探偵小説の個々
の作品の解説であり、個性は感じられず、無味乾燥の趣であっ
たが、横溝正史の全集別巻の『探偵小説五十年』は滋味深い。
印象的なエッセイは、戦後、現在の倉敷市真備町岡田字桜に
家族で疎開した横溝正史、そこで『本陣殺人事件』を執筆、密
室殺人のトリック、何よりも「金田一耕助」という探偵を登場
させた最初の作品という記念碑となる作品だったが、問題は「
金田一耕助」という名前である。言うまでもなくアイヌ語学者
の金田一京助先生から取ったものだが、正史も結果として金田一
耕助を主人公の作品がかくも売れて耕助が超有名になるとは全
く思っても見なかった、のである。だが金田一耕助シリーズを
書き続けるうち、徐々に正史の内部に得も言われないモヤモヤ
した感情が巣食った。「金田一京助先生がどう思われているか」
である。「私の書くつまらぬ小説にあの高名な先生の名前に酷
似した主人公名を登場させて、・・・・・いまさら変えるわけ
にもいかず」と煩悶に近い状態となった。
1963年、昭和38年、野村胡堂が死去、葬儀かお通夜か、正史
は乱歩とともに出かけたのだが、葬儀委員長は胡堂と旧制中学
がど同期の金田一京助である。座敷に正史がはいってみたら、
向かいの列、上座に金田一先生は座って正史の方を見てニコニコ
されていたとい。「ここで乱歩が私の背中を押してくれたら」と
思ったが、ついに金田一先生への挨拶は果たせなかった。京助先
生の死後、息子の春彦さんにその趣旨の詫びというか、挨拶をし
たら春彦さん「いや、全然、構いませんよ。むしろ名誉くらいに
思ってます」、正史は救われた、ということである。
あの『八ツ墓村』、加茂の三十人殺し、から津山三十人殺し、
そのおぞましい惨劇の記録を戦後、疎開中、岡山の百貨店で見た
ことが執筆の動機?ではなかった。あくまで素材である。坂口安
吾が1948年に発表の『不連続殺人事件』読者らに真犯人を当てさ
せるという仕掛けもあって大評判となった。「殺人の動機を隠蔽
するために別の殺人を繰り返す」だがこれを読んで正史は「私な
らこのコンセプトをもっとうまく書ける」と思ったという。まさ
しく『八ツ墓村』の執筆動機は坂口安吾への対抗心にあった。「
こちらこそ推理小説の専門の作家だ、安吾を上回る作品をかいて
やる」という負けじ魂の結果である。
正史は神戸の出身というがその父親は今の倉敷市船穂町柳井原
(やないばら)であるが不倫駆け落ち、神戸に住み着いた。それが
少年時代の正史にも影を落としていた。
「新青年」の編集長も務めたが、雑誌の英語名をSHINSEINENと
せずSINSEINENとしたため、「罪ある青年」という英語の意味と
なったと大々的な批判を浴びたこと、
この刊行の頃、やっと角川文庫の横溝正史作品に人気が出始め
たころであった。そのいわば人気爆発の胎動期の「探偵小説五十
年」、多くの興味深いエピソード満載のこの本の刊行は、あるい
み、象徴的ともいえないこともない。
余談であるが、横溝正史の長男、亮一さんは戦時疎開で東京の
府立十中(西高校)から岡山県の旧制矢掛中学に転校され、卒業さ
れている。だから同窓ということなのだが、亮一さん、矢掛中学
まで自転車で岡田村から通われた。ご苦労だったと思う。在校中
や野球部創設運動をサれたりで、倉敷で天城中学の生徒と喧嘩し
たとか、いろいろあったそうです。
この記事へのコメント
横溝正史の探偵小説は、展開に無理があり興味は、疎開先の目と鼻の先にあった「岡田更生館事件」を知っていたのではないか、ということです。