武田泰淳『森と湖のまつり』1958,エロとアクションとアイヌ民族論、文明論、自然論の驚異の「ごった煮小説」
実は、今は昔、中学生時代に角川文庫で読んだことがある。
その時の印象は随分、エッチなことを書いているな、という
印象を受けた。とにかく、あらゆる要素が「ごった煮」で、
全体はメロドラマだろうか、エロ、民族論、高邁な文明論、
大アクション、自然描写、よくぞ、書きも書いたりの大長編
である。最初読んだだけではストーリーは曖昧模糊、だった。
登場人物は多かった気がした。正直な読後感は「踏んだり蹴
ったり」されたようだ。
全編を貫くのはいたって古風なアイヌ研究家、池博士と、
博士を案内し、またアイヌを描くことを生涯の目的とする
女性画家の佐伯雪子、というコンビである。このコンビが
小説の舞台回しとなる。
池博士はかってアイヌの騒動でアイヌ側に味方し、大学を
追われ、アイヌの妻の鶴子には逃げられた。今はアイヌ民族
を守り、その団結を目標とする「統一委員会」を創設、その
仕事に全力を傾けている。
池博士の片腕として働くのが、実に精悍で行動的なアイヌ
青年の風森一太郎、一太郎は中心人物、主人公的な役割を与
えられている。しかしながら、妙に近頃は池博士を避けてい
るようだ。博士から去った鶴子と恋愛関係にある。
この若きアイヌ青年の勇敢な民族的行動は、和人の有力者
たちから憎まれ、不評を買って複雑な利害関係、対立を生ん
でいる。
雪子は一太郎と巡り合って、アイヌ民族を隠している網元
で有力者のところへ脅迫状を届けるようにと命令される。もう
吹雪の夜、網元と一太郎との争い、それに引きつづく日本版チ
ャタレイの場面のような一太郎と雪子とのエロい場面、やがて
べカンベ祭りとなって、この基本、メロドラマ的な作品は終結
にまっしぐら。ウタリの英雄の一太郎と網元の長男との決闘、
勝利の一太郎は行方をくらます、負けた長男は父親を説得し、
アイヌ民族出身を告白させる。
難からずと雪子を思っていた池博士が同宿し、雪子を奪う夜、
博士の札幌の自宅が火災となる。長年、集めたアイヌ関係の貴
重な物品、資料が失われた。その後、鶴子は池博士のもとに戻
り、よりを戻した。池博士はアイヌ語辞書の編纂に傾注する。
釧路の映画館経営で羽振りがいいアイヌ青年は高価な外車を乗り
回し、「北海道の資本なんてたかが知れている、仕事をやるなら
東京の資本を入れないと」と豪語する。で案の定、雪子の胎内に
宿る一太郎の子供、それを明らかにしてこの大長編は終わる、と
いうわけで基本的なテーマはアイヌ民族の行く末である。だがア
イヌ民族の将来に、実は日本民族の将来の運命も託しているのは
随所に露骨である。
なんとも雑多な小説で読んで頭間が変になりそうだ。
「アイヌ民族が存在したことまで、もうすっかり過去の事実と
して消えてもいい。だってもう復活できないんだから、もう些細
な過去にこだわらず、日本人の労働者、農民などと連帯して前進
しよう、その大きな前進に融合したらアイヌだ、ウタリだ、など
というセクト主義などどうもよくなるぞ」
というのはアイヌではない池博士、これが全編をわたる作者の
考えのようだ。だが
「アイヌ統一委員会の活動も重要だ」
とも博士の真意も本音はわからない。釧路のアイヌ青年、映画
館主の得意満面もまた別の作者の本音かもしれず、本当に明朗な
民族問題の視野である・
ともかく武田泰淳の長編は必ず尻切れトンボになる、という
定評を打ち消したのは事実のようだ。確かにアイヌ民族をテーマ
の一大叙事詩とも云えないことはないし、アジア人の深い思想を
体現した壮大なメロドラマ、・・・・・・だが、呼んだ感想は、
あまりにごった煮過ぎて風雅な文学的香りがない。エロさは際立
つ。でも民族問題の深刻さは、日本の現在の保守が「日本に先住
民などいない」というネトウヨ的独善が蔓延しているのを見ても
容易なものではない。一太郎と雪子のいかにも通俗的な出会い、
池博士が雪子を凌辱などの場面は作者がいい気になっているとし
か云いようがない。エロと高尚な思想論議、作者の民族問題への
甘すぎる態度、その一方でアクション満載、・・・・・褒めてい
いのか、貶すべきか、「コタンの口笛」みたいな小説と思い込ん
で読むと唖然とする。でも懐かしい昭和をも感じさせる。
映画「森と湖のまつり」内田吐夢監督
高倉健、香川京子、有馬稲子、三國連太郎など
香川京子と中原ひとみ

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