俳句の評価の絶対権威はいるのか、実はレフェリー不在の俳壇事情か


 ある意味、一億総俳人化というべきか、俳句人気は増すばか
りである。テレビび番組でもそれは十分以上に伺われるが、
つまるところ俳句の良し悪しの評価の絶対権威はいるのか、で
ある。とにかく短い、わずか五七五、そこに季語だから、多く
は残る七五で全て表現しなければならない。そこで評価される
句とは?うまく作れば素人だって大家を負かせられるそれも一
面、間違いない。高浜虚子の膨大な句を見たら、呆れるような
駄作も多いが、まあ、そこが俳句のいいtころかもしれない。
選句というか、句の評価というもののウェイトが大きく、そこ
に気の利いたコメントを随想的に書けたら好ましい以上だろう。

 俳句のレフェリー、とは俳人と認められる人?つまり全国的
俳句の協会に所属している人の評価力が基本?たしかに選者に
はなるにしても絶対性はないだろう。レフェリーはいるようで
いで本質的にはいない、と考えることも可能かもしれない。
 
 全国的な俳句の協会としては現代俳句協会、以前は入会希望
者が立候補し、全会員の投票で一定の得票以上で入会が認めら
れていた。俳人協会は会員になるには結社主宰者からの推薦が
まず必要だった。この両協会が俳句の協会の代表的存在として、
その会員の肩書があれば、ことによれば、あくまでことによれ
ば地方紙の選者になる可能性もある。他の協会では日本伝統
俳句協会、日本俳句協会、などが著名。

 何かと争いが多いそうで、そもそも俳句の協会に所属しない
という著名な俳人も少なくはない、別に俳句など制約がある分、
逆に自由だから、そこそこの団体、協会に所属しなければ、と
いうことは本質的には関係ないと思う独自の俳句グループの創
立は引きも切らないようだ。同時俳誌など自由な活動こそが俳
句の特色だろう。俳句の底辺は広い、ということである。

 メジャーな俳句の協会に所属し、俳人と認められているひと
も、別段、俳句だけで生活できるわけもなく、多くの職業に就
いている。あくまで、そのかたわらである。

 聞くところによれば、古い話だが終戦後間もない時代、昭和
23年ころに山口誓子、秋元不死男、西東三鬼らが職業俳人を宣
言したという、純粋に俳句だけで生活は現在どれくらいだろう
か、かっては三十人ていどとされていたが、現在はもっと増え
ていそうだが。

 限られた職業的俳人の生活手段は主宰誌、結社を持ち、指導料
、選句料、原稿料、寄付金、講演料、色紙や短冊の染筆量などか
らであるらしい。俳句作品自体を売る収入は微々たるもののよう
だ。俳句自体の「商品価値」はやはり低いということらしい。
俳句集の部数はさばけないものようだ。

 しかし正岡子規の「柿食えば・・・」の句、もし未知の句とし
て出されたら、入選できるだろうか。高校生の俳句大会でも難し
そうだ。桑原武夫の「第ニ芸術論」はごもっともな内容だが、だ
からこそ、俳句は面白い、ということである。


 新宿歌舞伎町俳句、屍派の句会、アウトロー俳句

  AS20160222000622_comm.jpg

この記事へのコメント