史上最も成功した国体(国民体育大会)は1962年(昭和37年)の岡山国体、東京五輪組織員会が「目標は岡山国体だ」と

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 1962年、昭和37年といえば私が小学3年の時、大げさでな
く「1964年の東京オリンピックの雛形が岡山県に来る」とい
うほどの岡山県、岡山県民挙げての熱狂だった。個人的な事
情では、あいも変わらず家庭環境は最低でこの年は特にひど
かった。あくまで、うちだけの話で岡山県は国体に沸き返っ
たし、熱の入れようもすさまじかった。史上最高の国民体育
大会はあの三木知事時代の第17回大会であった。

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 実際、岡山国体の評判は素晴らしく良かった。大会、秋の
大会が終わって一ヶ月経っても、なお全国の地方紙には岡山
国体への賛辞がやまなかった。

 岡山国体の成功を祝って岡山県国体局へも、どっと感謝の
手紙やハガキが寄せられている。その中の一通雨の差出人は、
東京オリンピック組織委員会事務局競技部運営課の千葉久三
氏、

 「国体のご成功をお慶び申し上げます。県民、老若男女、
こぞって協力体制、オリンピックでも、どうしたらあのよう
な状態に持っていけるか、岡山国体を拝見し、こちらも頭が
痛いです。本当に、いろいろ勉強させていただきました」

 日本陸連理事長の青木判治氏も

 「オリンピックに集まる選手は8000人、国体は16000人、
運営種目は東京オリンピックは20種に対し、国体は30種目
と、観客の数を除けば国体のほうが大規模なくらいです。
これを見事に成功させた岡山県の見事な運営ぶりは、東京
オリンピックでも大いに参考になります。各学校や役所な
どから有能な人たちを選りすぐって事務局に出向させ、準備
万端を期した点mなど、組織員会でもぜひやりたいが、いま
の体制では岡山国体には容易に及ばない」

 と云い切ったのである。

 「秋田も良かったが岡山はもっと良かった」という各地の
選手、役員の声が一様に上がっている。

 日本バレーボール協会副理事長の今鷹昇一氏

 「宿舎の点は文句なかったし、競技場もよかった。特に
練習コートの整備が実によくて、試合中のコートの整備は
まさにテキパキ、選手の輸送もマイクロバスで中継所に輸送
し、さらに大型バスで競技場へと円滑そのもの、練習コート
への試合時間の通知も手際が良かった」

 と絶賛。

 バレーボール競技場でのクラボウ倉敷(左)

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 参加した東急陸上部の大谷治男、山口東一、小泉哲也の三
選手は

 「街は路地裏にいたるまでゴミがなかった。朝早く、小学
生が起きて掃除をしていまhした。泊まった民家も真説その
もので、静かな部屋と心を込めた食事など、こちらが恐縮す
るばかり。試合にも応援に来て頂き、迎えるときも帰るとき
も近所の人総出、また別れを惜しんでくれました。ありがた
ったのはまた大会事務局が帰りの列車を全部、予約確保して
くれたことです。いつも切符の購入手配は頭を悩ましてまし
たから、点数をつけるなら100点を遥かに超えますよ」

 まさに1964年、東京オリンピックの目標は岡山国体、とい
うわけである。まさしくお手本だったわけだ。

 大会終了後も岡山県では国体のお祭り気分がなお続いた。
岡山や津山などは街の中心街、益から競技場へ向かう道々
に、国体旗、会場の方向を示す標識などが飾り付けられた
まま、フラワーポットにはなお色とりどりの花が咲き乱れ
ていた。

 「国体のこれぞ決定版だ」

 と多くの新聞に書かれ、悪い気はするはずはなかった。
中でも三木知事はたいへんなご機嫌で,思いあまってか、庁
内放送で職員に呼びかけ、心境を披露した。

 「古来功なり名を遂げて死ぬというが、今の私の気持ち
がそうだ。もう死んでもいい」

 しかし、その二年後、三木行治知事は1964年、東京オリ
ンピック開会式の二十日ほど前、61歳で本当に亡くなって
しまった。岡山医科大学で同期の(現在の川崎医大など設立
の)川崎病院院長祐宣氏の悲嘆も大きかった。

 岡山国体の概略はこうだ

 夏季大会は9月16日から19日までの4日間、中心行事の秋
季大会は10月21日から26日までの6日間。秋季大会の参加者
は選手監督数が15444人、岡山県はその中、700人で最多の
参加。会場は山岳競技の真庭郡蒜山高原も入れて12市1郡、
5町、会場数は53だった。

 経費は国体の過剰費用が批判されていて基本「1億国体」
という建前の手前「1億6千万、うち国体募金が6千万」と
称されたが、各市町村の出費も入れると3億5千万ほどは使
ったという。

 成功の秘訣、「サービス満点」ということであり、完備し
た舞台装置、綿密に計画された演出、それを動かした県民一
致団結のサービス精神、さらみ期間中快晴続き、という幸運
もあった。

 主競技場に当てられた県総合グラウンドは昭和24年、1949
年からコツコツ、造り上げたもので設備は完備、中央に大き
な緑地帯、周囲に野球場、陸上競技場、サッカー、テニス、
バレーボール、プール、体育館を配したスポーツの殿堂であ
る。

 三方を27m幅の舗装道路、岡山駅から徒歩でも15分という
至近距離である。これは選手たちにとっては何よりも好都合
だった。さらに細かいところまでさサービスは徹底、お茶も
市民が接待、熱い、冷たいも用意、当時としては際立った、
おもてなしであった。

 選手の受け入れについてはこれも徹底した配慮、岡山駅前に
総合案内所を設置、事務局の下部組織の一つ、観光接待部の中
村部長が所長となって常駐、事務局や運輸関係者、旅館組合な
どと縦横に連絡、陣頭指揮を取った。係員は京都や広島までも
出張、いつもは難しい人員の把握を行い、車中から連絡、その
後の運営を円滑化した。

 また特設のバス観光コースも設定、Aコースは6時間、Bコース
は3時間、最高68台の大型バスが走り回り、水島ではコース脇に
ならぶ新三菱重工の新車をアピールした。

 この国体の大きな特徴は、実は成功の最大の要因だったのは
国体が岡山県の三木県政の仕上げ的な役割を果たしたことだっ
た。岡山国体の成功は三木県政、三木行治知事を手腕を抜きに
しては語れない。三木知事はまず

 第一は東京オリンピックを前にして記録の向上を目指す。

 第二は33市町村の合併によって広域都市を作り、農業県から
工業県への脱皮を図るという岡山県の「発展のマイルストーン
とする」という目標

 第三は、従来、評判が全国的に芳しくないとされた岡山県人
の県民性を陶冶し、県民性の刷新を図ること、であった。

 「国体までに」を合言葉に10月13日に岡山空港を開設、なん
とか秋季大会には間に合った。また岡山駅西への操車場の新設。
岡山のでこぼこ道、の悪評を振り払う道路工事、次には三木知
事は岡山、倉敷の合併、百万都市を考えていたのだが三木知事
も二年後に急逝、かなわなかった。

 大宅壮一が岡山県人を「日本のユダヤ」と称した冷ややかな
県民性も国体を見た大原総一郎氏は「実に優れたページェント
だった。岡山県民もやればやれる」と郷党の心意気を喜んだ。
大会の成功は三木知事の「一つずつ意味づけし、性格づける」
県民性を巧みに捉えた手腕と評価した。

 また天皇陛下、皇太子殿下ら、皇族方の御行は普段は縁がな
い岡山県には大きな魅力となった。夏季大会に皇太子殿下ご夫
妻が岡山に来られれたときは、その興奮はすさまじかった。実
はここから県民の国体協力が燃え上がった、という。マスゲー
む、駅前での接待、市中の清掃、民泊など市民には大きな負担
で苦情も出ていたのだが、率先し、県や岡山市の課長級が清掃
活動に従事、だがあとに続く市民は少なかった。その低調さは
どうしようもなかったが、皇太子後夫妻の来岡で一気に盛り上
がりを見せた。「国体を私たちの手で」という婦人会活動も急
速に盛り上がり、傘下の会員23万人によびかけ、国体マーク入
リのエプロンを売りさばいた。沿道に花を㊤、「道交法違反」
との声も蹴散らし、「雑草の中に花が咲いたと思えばいい」と
押し通した。
 
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 津山郷土館の説明を聞かれる三笠宮ご夫妻

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 山椒魚を覗かれる高松宮殿下

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 合理主義の県民性のおかげか、大会運営は寸分の狂いもなく
なされた。まさにピカイチの運営だった。外来選手に大きな
印象を与えたのは、スムースな競技の進行、

 「余りと整然としすぎ、寸分のスキもなく、かえって冷たく
感じられた、もっと融通があっても」

 とうまく行き過ぎて逆に悪口さえ出る出来栄えだった

 「岡山国体は三木知事のヒューマニズムの現れ」と県国体実
行委員は云い切る。オーバーなようだが、岡山国体は三木知事
を抜きに語れない。御津町出身、岡山医大、九州大法文卒、
厚生省勤務、役人時代は徹夜もしょっちゅう、水野肇さんはそ
の前、山陽新聞の記者だったが2000年頃、医療先進県岡山県を
語る山陽新聞での対談で

 「三木さんは優秀な技官たちと深夜まで働きました。部下た
ちに気前よくラーメンを夜、おごっていました。『ラーメンの
三木』という言葉は省内では有名でした。県知事一期目は社会
党単独推薦でしたが、すぐに議会はほぼ全て与党になりました。
その生涯は追悼集の表題通り、正に『私なき献身』。私は生涯
で三木さん以上の方にお目にかかったことがない。ただ、惜し
まれるのは亡くなられたのが早すぎたことです」

 国体の時点、59歳で独身、なぜ独身?と憶測も流れたが、その
偉大な功績、人間性を疑う人はいない。

  三木知事、国体を終え、

「岡山県民は理屈屋、だが今回の国体の成功で、やるときには
やる、と証明した。涙が出るほど嬉しい、これで岡山県民は、
地方の田舎者、という評価を打ち砕き、自信を深めたと思う」

 その二年後、フィリッピンからマグサイサイ賞受賞、その
何ヶ月後か、東京五輪の直前、急逝された。遺言により、検眼
された。

 水泳競技掾での夏季大会開会式

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 婦人会の駅前の歓迎

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一般成年女子背泳  優勝は福岡の田中聡子選手、右は3位の
山陽女子校、木原光知子選手

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 高校女子、やり投げ小野選手

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 往年のデ杯選手、原田武一氏によるよる点火

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 選手の民宿

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 開会式での岡山市内高校生に拠る人文字

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 開会式での三木知事

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 遥照天文台での採火

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 炬火,国体旗のリレー

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 新見市のフェンシング会場前

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 蒜山のジャージー牛の牧場

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 備前市の国道2号線

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 岡山駅前に戻った国体旗

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 お茶のサービス

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 倉敷美観地区を観光する国体選手

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 マスゲーム

  婦人会連合会

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 就実学園の鼓笛隊

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 秋季大会閉会式、山陽放送の実況中継ではアナウンサーが
「さようなら、さようなら」を連呼

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 帰郷する選手たち

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この記事へのコメント

killy
2024年02月07日 20:34
当時、矢掛中学校の3年生が国体旗を持って走った。(当時は県道)