井上靖『おろしや国酔夢譚』1968,驚異の歴史小説、なぜ無名の日本漂流民が女帝エカテリーナに三度も謁見できたのか?

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 日本のメディアは古くは新聞雑誌、現在はネットと本当に
国策のプロパガンダに徹底的に追従し、国民も結果として洗脳
される。メディア自体が西側の資本に支配されている以上は、
その報道ぶりは非常に作為的なものにならざるを得ない、報道
したいことのみ報道する、不都合と思われる情報は一切無視で
ある。・・・・操作される国民であっていいはずもない。その
ため、というわけでもないが、この作品は重要だ。日本とロシ
アの近代歴史における重要な出来事をこれ以上はない、という
ほどに記述、小説化している。

 1782年、天明二年十二月十三日、伊勢の白子の浦を出た神昌
丸は船頭の光太夫と16人の船乗りをのせて暴風にあって舵を破
損、北へ向かって漂流を続け、八ヶ月後にアレウト諸島の中の
アムチトカ島(現在はアラスカ州、アメリカ領)に打ち上げられた。
その辿り着くまでに一人が死亡した。残った16人の日本の漂流
民がその後、出くわした数奇な運命をまさに巨細に語った長編
歴史小説だ。井上靖の歴史小説ではロシアものということで余
り読まれない傾向にあるが、おそるべき力作にして傑作だ。

 船頭の光太夫らが再び日本に戻るのは10年後である。詳しく
云うなら1792年10月9日に根室港に到着、翌1793年6月から函館
から松前に、そこから江戸に送られたのは1793年8月だった。江
戸時代もやや末期にさしかかった頃である。

 根室にたどり着いた時、光太夫の仲間は16人からさらに3人に
減っていた。また根室での越冬で一人が死亡、江戸に着いたのは
二人でしかなかった。彼らが異国で過ごした10年間がいかに過酷
なものであったかである。

 その苛烈な10年を井上靖は極めて克明に時間の経過に従って追
い続けた。光太夫以前のロシアに漂着した日本人の運命も資料に
基づいて調べ、その結果、ただの一人も日本に戻れた者はいない
と序章で述べている。だから、わずか二人でも最終的に日本、江
戸に戻れたことがいかに奇蹟的だった、かである。なぜ日本に戻
れたのか、空前絶後である、それがおのずからこの作品の基本的
まテーマとなる。

 まず光太夫という人物の人並み外れた聡明さ、見識と勇気を持
ったという要素、さらにキリル・ラクスマン、スウェーデン系の
フィンランド出身の博物学者、に巡り会えたことが決定的に重要
である。日本の高校歴史で「ラクスマン、蝦夷地を荒らす」と出
ているが、それは息子のアダム・ラクスマンである。キリルこそ
が光太夫らを庇護したからこそである。

 キリル・ラクスマン

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 キリル・ラクスマンの尽力で名も無い日本の漂流民がエカテリ
ーナ二世に三度も謁見でき、漂流中の苦難や途中で死んだ12人の
仲間のことや、帰国の願いを直接申し出ることができたのか、そ
れは1791年6月から7月のことだ。

 その結果、1792年9月、オホーツク港から日本に向けて出帆で
きたのである。別れに臨んで光太夫はラクスマン夫人のもとに
ひざまずき、その足を戴くようにした。これは子供が親と分かれ
るときの例である。ラックスマンに対して光太夫は、ひざまずき、
その脚を抱き、自分の頬に押し付けた、それしか感謝のしるしは
なかったのである。

 帰国が許されたときも、生存者は五人いたが、一人は凍傷で片
脚をなくし、もうひとりはロシアの女性と恋愛し、ギリシャ正教
に改宗した。二人は改宗したのだから、帰国はあり得なかった。

 この遭難、生きて別れ、また死別のドラマとラクスマンの庇護
におかれ、女帝に三度の謁見、またアムトチカ島からカムチャッ
カ、オホーツク、ヤクーツク、イルクーツク、ペテルブルクなど
へと転々とした苦難に満ちた歳月を広い視野で詳述した井上靖の
努力はおそるべきものだ。井上靖の歴史作品は西域もの、中国も
の、戦国ものなどに人気は集中で、ロシアを取り上げたこの『オ
ろしや国酔夢譚』は敬遠されがちだ、だがロシアとの交流の歴史
を知ることの重要さをもっとわかって欲しい気はする。

 それにしても光太夫からもたらされた多くの先進的知識が全く
の鎖国体制で闇に葬られたの江戸時代の日本の後進性はちょっと
ひどいと痛感させられる。

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