明治天皇は大室寅之祐、は紛れもない事実だが、云わぬが花か?明治天皇の痛恨の悲劇、「南朝復活」を宣言できず
大室寅之祐、維新後の明治天皇ほど切ない人物もいない。
我が身を生涯、明かすことができなかった。出来なかったが、
南朝正統を正式に自らが決定したにも関わらず、つまり自分
は北朝系の孝明天皇の皇子ではなく南朝の血を受け継ぐ者で
あるという意思表示なのだが、それはなぜ全国民に浸透しな
かったのか、である。戦前は逆賊の代表は北朝系についた
足利尊氏であった。皇居外苑には南朝の忠臣、楠木正成の銅
像、神戸には湊川の戦いで奮戦した楠公を祀る湊川神社を創
建した、・・・・・・北朝の皇子だった者が行う道理はない
が、それでも、・・・・である。「ここまでやってなぜ、わ
かってくれないのか」という明治天皇のお考えだったと思う
が。
同じ天皇と云って明治維新後の天皇は京都で臍で茶を沸かす
がごときお公家の代表の天皇とは全く異なるものである。近代
絶対主義の軍国国家の大元帥でなければならないのである。戦
争の遂行においては天皇に基本、すべて決定権があった。天皇
の直接の命令、大命がなければ決して基本、撤退は出来なかっ
た。個々の作戦に大元帥の天皇は深く関与したのである。昭和
天皇でも第三次ソロモン沖海戦の前、日露戦争での戦闘を引き
あいにだして警告を発していたが、結果は天皇が恐れていた通
りになった。エル・アラメインでの連合軍の勝利と並ぶ、大き
な意味を持った海戦だった。
まして明治維新後、明治政府と常に緊密に一体となって絶対
主義国家、軍国国家日本を指導する責務が天皇にはあった。
日清戦争で大本営は広島に置かれ、明治天皇は直接大本営に赴
いて戦争の指揮を執ったのである。長州藩出身者が重きをなす
明治政府と意思の疎通から完璧でなければならない。
それが孝明天皇の皇子などに出来る道理はない。明治天皇は
二十歳以前に乗馬を自在にこなし、大号令で閲兵し、また無類
の相撲好きであった。奇兵隊の中の力士隊に深く関わっていた
ためで、この相撲好きは昭和天皇まで続いた。
★明治における南北朝正閏論争、つまり南朝、北朝いずれが
正統化という論争であるが、孝明天皇は北朝である。
ことの起こりは大逆事件審理における幸徳秋水の発言である。
大審院法廷で幸徳秋水は
「聖徳高き今上陛下の弑虐を企てるなど天人倶に許さざるd大
罪である」
と恫喝されたのに対し、秋水は
「ならば今の天皇は南朝の天皇を殺して三種の神器を奪い取っ
た北朝の子孫ではないか、それを殺して何故それほどの大罪か」
と反駁した。秋水が言及したのは、明らかに1457~1458、後
南朝天靖15~16年)赤松遺臣団が自天皇、忠義親王及び興福天皇
を殺害し、神器を奪った長禄の変である。このときの北朝の天皇
は後花園天皇である。この法廷審理は外部に漏れ、「幸徳一派が
このような不祥事を惹起したことは文部省の歴史教育方針に誤り
がある」という議論の展開となった。
読売新聞も、1911年、明治44年1月19日、「文部省編纂の国定
教科書が南北朝を並立させ、正邪、順逆を誤らしめている」と
批判を展開した。
かくして政治家、学者も大挙巻き込んでの大論争となった。
ときの桂太郎内閣は買収懐柔など策を弄し、事態の沈静化に務め
たが。南朝正統を求める声は広がるばかりだった。
これをもて長州閥の総元締め、枢密院議長、山縣有朋はひどく
憂慮した。山県はさしたる功績もないが、明治維新後は元勲に
上り詰めた。そもそも幕末の志士の勤王倒幕の、明治維新の思想
的根拠は後醍醐天皇の建武新政の復活であった。なら北朝を南朝
と同列に扱うのは、明治維新の思想に反することは自明である。
山県は桂を呼び、厳しく叱責した。教科書などの南北朝並立論
の廃棄と、南朝正統を明示すべきと命じた。
山県は三月一日「南朝を正統として歴代天皇の御順位を定める
べき」との枢密院決定を上奏した。
かくして明治天皇は明治44年、1911年、三月三日付けで内大臣
、侯爵徳大寺実則を通じ、
「後醍醐、後村上、後亀山、後小松と続く順位の公式認定を
勅裁する」旨、渡辺宮内大臣に通牒された。
以上は完全に歴史的事実である。明治天皇が押されるかたちで、
南朝正統の勅裁をされたわけはない、すべて明治天皇の御意志に
沿ったものだったのである。孝明天皇の皇子なら、明治天皇は自
ら「偽天皇」と勅裁したわけで、偽天皇に勅裁出来る道理はない。
全ては明らかである、明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。
長州藩が後南朝の血脈を継ぐとしていた大室寅之祐である。
問題は長州藩による孝明天皇の暗殺は歴史学界も実質、認めて
いても、その皇子が明治天皇でない、という最重要な事実から目
をそむけている。偉そうな日本史学者も皆そうである。大学教授
で明治天皇を北朝の系統でない、孝明天皇の皇子でなく後南朝の
大室寅之祐という明確な事実さえ、自らの保身で認めないのであ
る。南朝正統は明治天皇が正式に勅裁したことではないか。
一つの問題は伊藤博文等による大日本憲法であつ。
天皇は万世一系にして、・・・・
憲法に「天皇は南朝を正統とする」との一文を入れ得ず、過剰
な継承性を強調したため、これが明治天皇を縛る結果となったこ
とだ。明治天皇とすれば伊藤博文の暴走にしてやられた、のであ
る。憲法の「天皇は神聖不可侵」という内容が北朝系天皇の「神
聖不可侵」に転化してしまったのは否めない。その後の南朝正統
の勅裁も長い目で見て、焼け石に水となった。明治天皇の痛恨、
「南朝は朕によって復活した」と言えなくなったのである。南朝
正統を勅裁しようと、「朕は南朝なり」と言明しなければ最終的
に意味はない。
だが、明治天皇にはどうしても「私は長州藩の大室寅之祐で
ある。南朝の血を引く者で、私によって南朝は復活した」との
決めの言葉が発せられなかった。なぜ?「あいつニセ天皇だ、
長州の侍だ」、と言われるのが恐怖、戦慄の恐怖であり続けた。
建前として南朝、後醍醐天皇の末裔、それぞ正統と勅裁を自身
が行った、「それでわかって欲しい」も結果、国民に対しては
空振りに終わった。大室寅之祐を隠蔽するため写真撮影を何よ
りいやがった。本当に気の毒な方だった。
何より第日本国憲法の「天皇は万世一系」が明治天皇に重く
のしかかった、歴代が明らかな北朝を擁護する結果になったか
らである。後南朝は明確化しにくい、伊藤博文をこの点で恨ん
だが発布された以上はどうしようもなかった。
明治天皇は自らの出自を隠す、という致命的なハンディキャッ
プを生涯、持ち続けた悲劇の人である。かりに自らの出自を明ら
かにしない以上は、元老たちのいいなりになる、理念喪失である。
明治天皇は後南朝であり、大室寅之祐である。だが政府は一切、
それは無視である。国民も国の言いなりに愚民化である。歴史学
者は左右問わず、我が身大事の欺瞞で事実から目を背けている。
これを悲劇と言わずして何であろうか。
維新の志士の中心に坐す大室寅之祐、撮影後、しばらくして
大室寅之祐は姿を消した、誰も二度と「大室寅之祐」を見た者
はいない。中心に座した者なのだ、・・・・・明治天皇である。
孝明天皇の皇子とされる画像
田中光顕公爵の証言(警視総監、学習院院長、宮内大臣を歴任)
「私はかって60年来、一度たりとも人に語らなかったことを、今あなたに
申し上げましょう。現在、このことを知っているのは西園寺公望公爵只一人
でございます。
実は明治天皇は孝明天皇の子ではない。孝明天皇は大政奉還、明治維新
よいうときに突然の崩御をされました、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせ
られ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山
大納言邸でお育ちになったということを天下には公表し、御名を睦仁親王と
申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなってい
るが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御子孫で
、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州に落ち、
やがて大内氏が滅びて、大江氏の子毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩
において、此の御王孫を御守護申し上げてきた。これがすなわち、吉田松陰
以下、長州の王政復古御維新を志した勤王の運動である。
吉田松陰亡き後、此勤王の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允
すなわち桂小五郎である。元来長州と薩摩は犬猿の間柄であったが、此の桂
小五郎と西郷南洲を引き合わせて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の
土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から南洲に『我々はこの南朝の
御正系をお立てして王政復古するのだ』ということを打ち明けた説き、西郷南洲
は南朝の大忠臣菊池氏の子孫であったため、衷心より深く感銘し、之に賛同し
た。遂に薩摩藩を尊皇倒幕に一致せしめ、薩長連合が成功したのである。
之が大政奉還、明治維新での原動力であった。
明治天皇、大室寅之祐は明治維新になると同時に『後醍醐天皇の息子の
皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祀りせよ』と仰せになられ、遠州
の井伊谷宮の如きは、明治二年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせ
られ、同六年には官幣中社に列せられた。
而して御聖徳に依り、着々と明治新政は進展し、日清、日露の両役にも世界
各国が夢想だにしない大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即ち
明治天皇の御子孫が永遠に万世一系の天皇として此の大日本帝国を統治あそ
ばせると大確信するにいたり、しかも明治四十四年南北正閏論が沸騰して桂
内閣が倒れるに至った時に於いても、明治天皇は自ら南朝が正統であることを
御聖断あらせられ、従来の歴史を訂正されたのである。
斯様にして、世界の劣等国から遂には伍代強国の中の一つとなり、更に進ん
では,今日に於いては世界三大強国のいちにまでなったということは、後醍醐
天皇の皇子の御王孫明治天皇の御聖徳のいたすところである」
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