井上靖『西域物語』新潮文庫など、甘いロマンを拒絶する悲惨な歴史の爪痕
「西域」というと日本人にはシルクロード、井上靖の西域
を舞台の小説群などで限りないロマンの対象だろう、ごく素
朴な感情である。その西域を井上靖さん自身が実際に旅して
の見聞をもとに述べた著作だ。その現実の歴史は悲惨であり、
その爪痕は痛々しくもあり、殺伐たるものなのである。
西域とはでは具体的にはどの場所か、となると元来、西域
とは中国人が自国の西に広がる地域を漠然と指した名称なの
だが玉門関以西の広大な内陸地域で、ほぼ中央アジアを指し
ているようだ。ではシルクロードとの関連だがシルクロード
は長安からローマまでを結ぶ交易路とされる。ざっと「チベ
ット高原」と重なる部分は多いが、現在ではパミール高原を
境とし、東と日のトルキスタンを指していると云われている。
東トルキスタンはチベット側というのか、新居ウイグル自
治区が主要な地域で西トルキスタンはカザフ、ウズベク、
キルギス、トルクメン、タジクなど、都市化の波も戦後、襲っ
ているようだ。
だが問題は過去である。新疆ウイグルの中国共産党弾圧は
さておいても、過去に背負った歴史の爪痕は容易に拭えない
ものがある。それは紀元前のアレクサンドロス大王の侵略、
8世紀以降のアラブ、イスラムの侵略、13世紀のモンゴル帝
国の侵略、つづいてチムール帝国、その都度、支配者は入れ
かわり、歴史が塗り替えられた。相次ぐ戦乱で犠牲はおびた
だしく、宗教施設、文化的象直物は破壊され、都市自体も破
壊され、消えてしまった。それは廃墟化して砂漠に埋もれて
いる。その上に新たな都市が建設される。
中央アジアに通じる道は三つあり、ひとつは天山山脈の
北麓沿いを進む道、これは天山北路だが、南麓に沿って進む
天山南路、さらにタクラマカン砂漠を南に回る西域南道、と
称した。これらはシルクロードの部分をなすが、歴史の興亡
に翻弄もされ、絶えだえに続いていたようだ。それを井上さ
んは「人間の意志の軌跡のようなもの」と云う。
西域作家でもある井上靖さん、『異域の人』、『楼蘭』、
『洪水』、『敦煌』、『蒼き狼』その他、数多い気がする。
NHKの「シルクロード」企画で何回か井上さんも出演され
た。何度も現地に足を運んでいるからである。最初は1965年、
続いて1968年、西トルキスタンを旅した。そもそも詩集『北
国』を見ても歴然だが、早い段階から西域への異常なまでの
関心を持っておられた。さりとて、めったに行ける場所でも
なく、やっと還暦近くになって現地を見ることが出来たとい
うことだ。その歴史紀行がこの本ということになる。具体的
な取材ということではなく、あくまで作品への追経験という
ことだろう。
歴史的記述で述べられていて、漢の武帝で西域に旅した
張騫、李将軍の大宛征伐、インドに経典を求めた玄奘三蔵、
玄奘がその旅の途中に通過したイシククル湖の湖底に沈む
都の伝説にも触れてサマルカンド興亡史をゾグド人の運命
に即して語る。近代になって西域に出向いた学者たち、西
域が生んだ詩人、アリシェアル・ナワイやルーダキーの紹
介、その容易ならざる歴史の流れを凝視されている。
ちょっと関心は抱けても通常は深めるのは難しいが、そ
こは井上靖さんは実に深い。「私のような作家が、沙漠の
国々の歴史や風土に惹かれるのも、その未知の闇の部分が、
時に異様な五彩の虹の如きものを走らせるからに他ならな
い」とある。
NHK特集 シルクロード
絲綢之路
この記事へのコメント