残念ながら何歳になろうと今日が人生のスタート、どこまで行こうが私は私
寿命の少々の長さの違い、残り時間を考えても仕方がない。
だって人間は、いつだって死ぬ可能性がある、赤ん坊だって。
人間はみな、同じことだ。寿命の違いなどみな五十歩百歩、
間違いなく云えること、それは人間はみなすべて限界状況に
おかれているということ、ありとあらゆる災難、不幸がいつ
なんどき、襲ってくるやら分からないし、決して逃れるすべ
もない運命に規定されてもいる。私自身、過ぎた時間のあま
りの短さと、その短い時間に、あたかも中性子星の質量のよ
うに途方もない天文学的な苦難が押しこめられていたか、で
ある。仮に100年生きようと時間としては瞬間でしかない、
苦難は間断なく襲う、もちろん、これは個人差というものは
大きいが、幸福を極めてもその底には逃れられない、不幸が
うごめいているものだ。
今の今まで生きて、学び得たことは謙遜でなく、太平洋の
水の一滴にさえならない。人生は数限りなく繰り返しでもや
らないと、なんの才能もない、要領の悪い人間に、多少なり
とも、まとまった業績など残せそうもない。ここまで生きて、
なおギリシャ文字がマスターできないでは、と我ながらあき
れるしかない。
残念ながら「人生には疲れました」というような余裕はな
い、常に、今が人生のスタートだ、だって、そうでも考えな
いと何一つ学べない。学ぶ気にもならない、限界状況に置か
れた人間に可能なことは過去は捨て去るしかなく、常に無の
地盤にいる自分を自覚し、とぼとぼでもいいから歩み続ける
こと、である。なすべきこと、学ぶべきことは多すぎて、
この人生で何ができる?頭がよけりゃ別だが、それさえさっ
ぱり、どこまでも我流にしてダサく、わが道を進むしかない。
堂々巡りの無限ループの打破も必要である。
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