佐藤千夜子、東京音楽学校時代の盗み疑惑による退学事件、晩年は西洋のオペラ曲を原語で歌う謎の掃除婦


 日本初のレコード歌手、「東京行進曲」の佐藤千夜子、1977
年のNHKの朝ドラ「いちばん星」が彼女をモデルに相当にフィ
クションを交えて制作された。高瀬春奈の降板が話題をまいた
ものだ。だが放送が開始されてから即座に。「『いちばん星』
の佐藤千夜子はあまりにきれいごと的に描きすぎている。実際
はあんな女性ではなかった」というNHKに対する電話や投書に
よる批判が相次いだという。いかにも実話のように描かれてい
て、「これでは誤解される」という悲鳴に似た声が多かった。
しょせんテレビドラマなのであるが。

 脚本は誰が書いた?宮内婦貴子である。NHKが宮内さんに
結城亮一『あゝ東京行進曲』を参考にしてオリジナルな作品を
書いてほしい」と依頼したという。そこで宮内さんは佐藤千夜
子の出身地に取材に行き、いろいろ話も聞いたが、思うもよら
ず佐藤千夜子への反発が多いのに驚いたという。非常に生意気
だったという。好感を持たれていないのは明白だった。だが、
そこで聞いたのは地元では佐藤千夜子の東京音楽学校退学事件
はなお語り継がれていた、というのだ。

 佐藤千夜子、佐藤千代の東京音楽学校退学事件とは、

 佐藤千夜子が盗みをはたらいて諭旨退学させられた、という
噂である。

 佐藤千夜子と東京音楽学校で同級だったという平間さんの証
言によればこうだ

 「盗難事件があったことと、千夜子さんが学校をやめている
ことは事実です。卒業はされていません。ただ盗難事件の犯人
が千夜子さんだった、という証拠はないわけです。だから証明
されていないことです。云うならば、『佐藤さんが盗んだのよ』
という噂がいやになって退学されたんじゃないでしょうか。同
級の女子学生はみな、千夜子さんに反感を持っていました。妬
みがあったんです。それでずっと冷酷な態度が今も継続中とい
うことでしょうか。ともかく千夜子さんはずば抜けて歌唱力が
高かった。うまかった。渡辺宣子、のぶこ、のちの田中伸枝さ
んとソプラノで双璧でした。」

 他の同級生の話

 「私は佐藤さんを上野に入る前から知ってました。それは
神田にあった予備校みたいな音楽の学校で、そこで一緒でし
た。佐藤さんはとにかく鼻っ柱が強かった。窃盗で自分に疑い
がかかったことに絶対、我慢ができなかったんでしょう。証拠
はありません。でも金遣いがあらく、派手な性格ですから、都
会育ちの同級生から見たら田舎者のくせに派手好きで、という
反発が強かった。才能への嫉妬もあったと思います」

 実際、佐藤千夜子がイタリアに渡る前に、同級生を警視庁に
まで引っ張っていって警視総監に面会を求めた。警察が正式に
調べて事件の真相を公表してほしいと訴えた、これは1929年、
昭和4年の雑誌にも載せられたという。

 「いちばん星」がNHKの朝ドラで放送され始めてからも、あ
る著名音楽家の子息が朝日新聞に「盗みを働いたような人をN
HKはどうして取り上げるんでしょうか。新聞に記事化して載せ
たらどうでしょう」という訴えがあったそうだ。

 盗みをはたらいたという噂は長く伝わっていたのだ。宮内婦
貴子さんは「その話は実はドラマに入れようかと思ってました。
佐藤さんは実際、おっちょこちょいで、・・・・・・私の部屋
にこんな大金が?誰のかしら、という形で入れようと思ってまし
たが高瀬春奈さんから五大路子さんに変わって、ちょっとその味
が出しにくいと思い、やめました」ということだ。

 佐藤千夜子は1968年、昭和43年12月13日、東京大久保の病院
で乳がんで死んだ。71歳だった。

 死後の興味深い話で藤浦洸さんによると

 「今から二、三年まえでしょうか、青山のあるビルの会社の
重役さんから電話が入りまして、うちに年寄りの掃除婦で、実
に美声で歌が上手い人がいる、それがれっきとしたイタリア民
謡をしかも原語で、間違いなく、昔はきっと名のし知れた歌手
と思うけど、一度聞きに来てくれないか、・・・・・と。しば
らくしてわかったんだあの佐藤千夜子だった、『東京行進曲』
でならした人だよって。だから私は大切にしてあげてほしい、
と頼みました」

 佐藤千夜子はクラシックを学び、1931年にイタリア留学、で
オペラ修行、1934年12月1日に帰国した。

 凱旋帰国で現在のNHK東京放送局のラジオが佐藤千夜子をプ
リマとするオペラ「ラ・ジョコンダ」を全国放送、だが流行歌
は売れなくなって落日が忍び寄った、さらにバセドー病を患っ
た。

 戦後は全く売食い生活、知人に借金して回ったようだ。そう
とうに迷惑を掛けている。末弟も長く同居し、「姉のお陰で音
楽家になれた」と感謝だが、その妻が入院中も付き添ったとい
う。

 「アメリカから200ドル送ってきたときだった、これでクッキ
ー買って、お医者様と看護婦に配って、というから新宿の中村屋
で買ってきました。生活保護で無料入院なのに贅沢趣味で、果物
も高級メロンを買ってこいとか、いつまでも贅沢な抜けない人で
したね」
 
 最初は大部屋で高慢ちきで生意気なおばあちゃんとして同室の
患者や看護婦から嫌われていたという。名声の驕りが抜けなかっ
たようだ。調子がいいと「波浮の港」を口ずさんで廊下を歩いた。
佐藤千代という本名で入院していた、だれも佐藤千夜子とは思わ
なかった。だが個室に移り、吉屋信子、由起しげ子等がお見舞い
に訪れはじめた病院の人達は驚いたという。ビクターからは佐藤
千夜子と藤原義江の歌など、LPが持ち込まれ、再生されたという。
当時、たしかに、雑誌記事で佐藤千夜子、乳がんの末期、気の毒
な話だが腐敗臭のような悪臭が部屋に漂っていたという。

 なお吉屋信子さんとは音楽学校以前から、四谷の女子学寮にい
た頃から親友だったという。キリスト教の伝道師が作った学寮で
あった。死後、敷布団の下から装丁の糸も切れそうなバイブルが
見つかったという。生涯、彼女を支えたものはバイブルであった
わけである。


  1968年6月、死の半年前の佐藤千夜子

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