『花徳』のモデル、智照尼(高岡智照)が真言宗大覚寺派の権少僧正に昇格した日
瀬戸内寂聴さんの小説『女徳』のモデル、というのか、瀬戸
内さんの小説の別段、モデルにならなくても十二分に有名な京
都嵯峨野の祇王寺の庵主、智照尼が1970年、大覚寺派ではおよ
そ異例の「権少僧正」にやや例外的な「特任」特別な功労者と
認められたものだけに行われる「特任」で昇格した。
「祇王寺」は洛西の観光コースにまでなっていたが、それも
智照尼が「荒廃の極にあった祇王寺を辛酸のはてに復興させ、
隆盛を築き、広く信心を深めた」というのが「特任」の理由、
というののだが「僧正」という位を贈られたのは真言宗大覚寺
派では初めてのことだった。
でも『女徳』でも描かれているが男から見て甚だ魅力があ
るわけで、各ジャンルについて限りないサポートを行う男性に
恵まれた。出家後もである。寺院としてはサポートは絶対的な
意味を持つ,尼僧個人に対してでも。
よく知られた話だが、若かりし頃は「照葉」として知られた
名妓だった。大阪の花街、宗右衛門町から舞妓に出たが、婚約
したはずの男の裏切りに激怒、自らの左小指を切断の挙に出た。
これが16歳の時である。その年に新橋に出て、ここから名を照
葉と改めた。

小指を自分から切った芸妓は大評判で男性客が押し寄せた。
また絵葉書美人で勇名を馳せた。新橋時代である。24歳で結婚、
これも30歳で離婚、バーのマダム、女優、また海外渡航を繰り
返し、1934年、昭和9年、剃髪、得度。
何とも華やかな生活を捨てて、だが精神的に一日とて気が休
まる日はなかった、という。荒れ果てた祇王寺の庵主になった
のが1936年、昭和11年、祇王寺とともに生きた人生だった。
「僧正などあんまり有難すぎて、正直、窮屈で戸惑ってます。
管長までおいでになって、恐縮、即身成仏という意味からの親
心でしょう」と感想を述べたという。
とにかくサポート者に恵まれる、だから女徳なわけで、常に
相談相手、物心両面を常にサポートしてきた中島六兵衛は「
智照尼も変わった、前は一緒に飲みにって紫の僧衣でダンスを
踊ったり、でも決して崩れない。品があり、美しかった、もう
枯れてます」との発言が残っている。
中島六兵衛は、智照尼の著書『黒髪ざんげ』をベースに、
智照尼を主人公とした瀬戸内寂聴の『女徳』では鮫島六衛門と
して登場している。また京都市長時代から高山義三もサポータ
ーの一人、台風で壊れた祇王寺の再建の労を取った。
この時点で「衣食足りて退屈」ということだった。「もうあ
らたに修行も難しい、本当にただ穂仏と差し向かいで心から拝
みたい」というう言葉も残る。
昭和26年、1951年に「ホトトギス」に辞世のつもりで詠んだ
祇王寺は我が墓どころ露どころ
これが常に我が身の心境ということのようだった。
なんとも異次元に凄まじい女性である。瀬戸内さんの99歳には
一年、及ばなかった。男から見て反発も感じるが、徹底した自己
の全うには違いない。
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